忍者ブログ

ふわふわさらさら

こんにちわ! こうしてご覧いただけるご縁に感謝します。 気になること・なんとなく思いついた妄想などを気ままに描いていきます。 もし気になる部分がありましたら受け取ってください。 お気に召さないようでしたら「たわ言」と笑っていただければ幸いです!

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

自分への信頼 ~迷走した自信の行方~

こんにちわ!

夏が来てますね! 

前回ブログ記事を書いてから3ヶ月くらい経ってしまいましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか?

僕はこの3ヶ月間をまるで何年もの歳月が経ってしまったように感じるくらいのきつい気分の揺らぎの中で過ごしてました(笑)
あまりにも落ち着かないのでここ1ヶ月間くらいは住居を延々と、全身全霊の情熱を込めて人生最高の掃除をやってました(ちょっとオーバーな表現です。すいませんw)

持ってる家具や家電製品や持ち物で分解できるものは全部分解して、ありとあらゆる物を移動させながら出来る限り徹底して汚れや錆を落として綺麗にしてやりました!
改めて自分の持ち物を整理すると驚くほど要らない物がわんさか出てきました。
ふぅ~ すっきりした(・x・)

.
大きな物を動かすたびに「こんな所にホコリが溜まってたのか!!!」とか「あれ? ここ見えてたはずなのにずっと汚れてたんだ・・・」とかいろいろと格闘しながら、床に展開されて溢れかえる荷物たちをあっちにやったりこっちにやったり移動させながらとりあえずの居住空間をまるでパズルのように確保しつつ、

「そうだ! こんな感じだ! 俺の内側が今まさにこんな感じだぁぁぁぁ~!!」

と訳の判らない想いと共に舞い上がるホコリと延々と戯れてました(・。・)b


結果的にはあまり変わり映えはしなかったけど、自分がスッキリしたのだからそれでいいです!
気に掛かっていた事に今出来る最善を尽くして区切りをつけたのだからそれでOKです!


その掃除の最中にふと、去年youtubeの中で見かけた『小学生の面白いテストの珍回答』のことを思い出してつい一人で笑ってました。
たぶん小学校低学年のテストだと思うんですけど、『お母さんの好きなところを書いてください』という出題に対して、用意されたその大きな解答欄に負けないくらいの大きで力強く書き込まれていたその子の回答は

『好きに理由なんてない!』

その一行だけでした(笑)


僕、この文章を見たときに「なんて核心を突いた言葉なんだ」と可笑しいやら感心するやらで大笑いするしかなかったです(笑)

この一行に込められたこの子のお母さんに対する絶大な「大好き!」という想いと信頼感が伝わってくる感じがあまりにもストレートで「素敵さ」がオーバーランして笑いのツボまで突き抜けて来ちゃったんだと思います( >_< )b

これって、大人が子供から教えてもらうポイントの一つのような気がしてます。
きっとこの子がどんなふうに成長していっても、お母さんに対するこの想いは変わることがないんだろうなと思います。


.
=== 自信の着地点 ===
この世に生きてると時々「もっと自信を持って下さい」というようなことを言われたりするときがありますよね。
僕もかつてちょいちょいそう言われて何度も奮起したのを覚えてます。

ただ... ここだけの話ですけど、「自信を持って」と言われても内心では結構困っちゃったりしませんか?(笑)

かつての僕はそう言われるたびに懸命になって自分に自信が持てるような過去の経験を探したり、自信を持てるような凄いことをやろうと試みたりしてました。


--- 旧来の社会の習慣 ---
ビジネスの商習慣に端的に顕われてることなんですけど、取引額が大きな業種とかサービス開始と代金支払いのタイミングにタイムラグがあるようなスタイルの取引だと支払い相手の信用度を確かめた上での契約が普通だと思います。
これはいわゆる詐欺に引っ掛かって無駄な損金が発生しないようにするための防衛的な意味合いで、クレジットカードや総資産額や他社との取引実績やその他の何らかの根拠を基にして相手が信頼に足ることを確認してから実際の取引に着手するという手順が習慣になっていると思います。

これについて「良いor悪い」を問う気はないのですけど、これまでの人間社会がどういう感じに構築されてきたのかを把握をするために自分の視点を一歩後ろに下げて大きな視野であらためて観察してみるのも興味深いです。

相手が信頼できるかどうかを確かめない限り安心して取引するかどうかを決められない現状がそこに繰り広げられいて、不信や不安が社会の営みの根底にあるのがわかります。

同じことをもう一度書きますが、ここでこれについて「良いor悪い」を問う気はないです。
ついでに言うと、この場でいきなり「だから○○すべきなのだ!」みたいな主張する気もないです。
ただ単に新しい時代に向かって行く「自分の在り方」を模索するための純然たる現状把握のためです。


ここでちょっと読者の方にお伺いしたいと思います。

かつてあなたが誰かから「自信を持ってください」と言われた時、社会の習慣と同じノリで、自分自身が信じるに値するかどうかを確かめようとして何かしらの根拠を捜し求めませんでしたか?

もし仮に、誰かが僕に「お前はどうなんだ?」と尋ねてきたらその答えは先に記述したとおりかつての僕はそうしていました。
そして今はそうではありません。


--- 根拠なく自分を信頼する ---
この「根拠無く自分を信頼する」という行為は、ある人にとってはキチガイじみた馬鹿げた行為に思えるでしょう。
でもその反面、ある人はその価値に気づいてくれると思います。
これってとても強いです。
まだ知らない領域に足を踏み入れる強靭さを育てていってくれます。
それは他者に喧嘩を売るような威勢のよさとは全く別の部類の強さです。

この行為には他者から自分の価値を認めてもらう必要性がありません。
だからわざわざ他人に自分の価値を誇示して承認や認定やその他の何かを求める必要性もないです。
そこに留まり続ける必要性もなくなります。


自分への信頼が、覚悟を決めて自発的に次のステップに挑戦していく勇気や、新しい自分の在り方を自律的に調律しながらもっと自分らしい「素の自分」に回帰していくメンタルの強さを育てていってくれます。
これまでに誰も経験したことがない未知の領域に入っていく段階にある時に、過去の事例や実績に根拠を求めると無自覚なまま不安と不信が渦巻いちゃってそれが障壁になっちゃいますけど、そんな時には自分そのものを信頼しきっていく方がよりメリットが大きいです。

逆に過去に事例のない事柄に対して、共通性があるわけのない過去の判断基準や思考パターンをそのまま当てはめてしまうとその本質を誤認して的外れな対応をしかねないです。


決して甘さだけの話をするつもりはありません。
これは甘さも含めた総合的な在り方の様相を言葉で表現した場合の一つのサンプルです。

--- ちょっとだけ僕のハイヤーセルフ観を語らせて ---
僕は精神世界と呼ばれているものがどういったものかもハイヤーセルフと呼ばれているものがどういったものなのかもまだよく判っていないです。
ただ、以前にもブログに書いたように僕の基本的な考え方はこんな感じになってます。
・大きな感覚世界の中に小さな物理世界が在る
・大きな意識の自分の中に小さな肉体の自分が居る
・大きな感覚の領域の中に小さな理屈の領域がある

僕にとってはこの内包関係を基本構図とすることでいろいろな物事の整合性がスムーズに取れていくので、この前提のまま以降を書き続けます。

僕はこれまで新しい感覚で自分が感じた事や気づいたことや受け取れたもの、チャネラーさん達が伝えてくれる高次元のメッセージで自分が選び出したもの、この世に散らばったヒントとなる情報を取り入れながら新しい意識レベルでの自分の体系を創っては肉体側にそれが馴染んで定着するまで休息し、次のタイミングが来たら一旦分解して揺らぎの中で動的バランスを取りながらまた再構築するサイクルを繰り返してます。
そのサイクルの中にも意識⇒信念・感情・思考⇒表現(行動)ーー→気づいたことなどを自分へフィードバックするサイクルの繰り返しがあります。
立体的に表現するならスプリングコイルの螺旋に沿って周回運動しながら進行してるような感じです。
(脱線しちゃったり余分に休憩しちゃたり復習に戻ったりもよくしてますけどねw)


このブログに記した内容は、その体系の中からさしあたり長期的に変更する必要がなさそうなもので、他の人にも参考になりそうなものを選んでこうやって記述しています。

旧来の社会の基本的な考え方に「善行を積み重ねて徳を積み、やがては人として大成する」みたいなものがあります。
もっとカジュアルな表現だと「つらい仕事もこつこつと努力を積み重ねていれば、やがては成功する」という感じのものです。

ここで語弊や誤解を恐れずに敢えて言わせていただきます。
僕のハイヤーセルフはそんなもの気にしてないです(笑)
どちらかと言うとこんな感じ。

『それでもいいしそうでなくてもいいよ~ 自分で決めて。 お好きにどうぞ~ 』

「なにが本当の正解か」というより「自分で決めて自分がそれをやって経験して自分が成長していく事」の方が大事みたいです。
その意味でビジネス的な「結果を出す」とか「売り上げの数字を動かす」というものとは重要とされるポイントのウェイトバランスが異なっています。

世間でよく言われる「これはこうしなきゃいけないんだ」とか「これしかない!」みたいなものは、単に肉体側の肉体側による肉体側のための都合を満足させるための理屈でしかないみたいです。

基本的にハイヤーセルフは肉体側の自分が自分自身に向けている態度と同じものを返します。
愛すれば愛を返します。
信頼すれば信頼を返します。
ごまかしは無意味です。だってごまかそうとする相手が自分自身だもん。もろにバレてます(笑)

そして僕は大切な自分を裏切らない。だから裏切られることもないです。
やれることはできるだけやります。ダメな時はダメな時で開き直ります。
開き直っても大丈夫っていう妙な確信があります(笑)

時々イジワルっぽく思えるときもあるけど、それはそれで何か大事な意味があるんだろうと思ってます。
(子供の頃に母によく言われた『あんたほんとに返事だけやね(呆)』みたいな感じでしょうか???)

僕にとっての肉体側の自分とハイヤーセルフの関係はまるで親子関係のようです。
もしこの物質世界を「公園」に例えるなら、ハイヤーセルフは親役として子供役の肉体側の自分に向かって『遊んでおいで~』と送り出してベンチに腰掛けて見守っているような感じです。
実際に今の僕は 自分が自分をやっていることが楽しいです。

厳密に言えば肉体側の自分もハイヤーセルフと呼ばれる存在も「自分」という多次元的な総合体のそれぞれの側面なんでしょうけどね。


.
=== 迷走した自信 ===
僕自身がかつて自信を持つために自分の過去に根拠を探し求めていた頃、「俺は以前あんなことをやったんだ!」とか「あの頃の自分は絶好調だった。あの時のようにやればいいんだ!」みたいな自分なりの実績を選んで自信の根拠となる理由を一生懸命自分に言い聞かせていました。

それはそれなりに効果もあったんですけど、競争社会の中ではその根拠自体が意味を成さなくなる時が必ずやって来るのがこの世の儚さですね(笑)
自分より優れた実績を持ってる人や根拠としたことに全く価値を感じてくれない人は必ず居ます。それってちょっと冷静に考えれば当然のことなんですけどね。

何かを根拠にして自信を手に入れるたびに必ずどこかで敗北感を味わうことを繰り返してました。
そのうちだんだんと大したことでもないことを意固地になって自分の凄さのように主張するようになっていきました。

その頃の僕はちょっと褒められたり少しでもいい評価をもらうことがもの凄く嬉しくて、評価してくれた人を自分のよき理解者のように感じていました。
いつの間にか無意識のうちに他者から認められることが自分の存在価値を証明する根拠のようにもなっていたと思います。
今でも他者から認められるのは嬉しいことだけれど、その当時の僕の必死さは今のものとは違う異質なものだったと思います。

あの当時の心理状態を裏返して考えると、否定されたり認めてもらえなかったりすることを慢性的に怖がってました。
だってそうされることは自分の存在価値を否定されることと同義になっちゃってますもん(・x・)

そんな状態だと自分と意見が違う人を見ると自分を守るために反射的に警戒態勢・防衛体制に入ってしまいます。
自分を守ることはとても大事なことなのですけど、それが必要以上に過敏になりすぎてしまうと精神的に不健康です。
(免疫細胞が過敏に反応して鼻水が止まらなくなる花粉症みたいな感じかな?w)

過去にごく少数ですけど他者をおとしめることに必死になっているように見える人と出会ってたことがあります。それってたぶんこんな心理状態がひどくなっちゃて無意識のままに自分を守るために自分より優れてると感じてしまった相手や自分が不利になると感じた意見の持ち主のアラを必死に探して、相手を排除することで安心したがっていたんじゃないかと今は推測してます。

その状態のその人には自分が何を求めて何をしたがってるのか自覚がないです。たぶん...


.
=== 【雑学】旧来の在り方の性質 ===
特定の宗教をやっている人もやってない人も「俗世」という単語は知っていても それがどういうものであるかを気にしたことがある人はわりと少ないのではないでしょうか。
ちなみに僕は田舎の小さな寺の子供としてこの世に生を受けました。大学も仏教の専門課程を卒業しました。
子供の頃から何がどうなってるのかよく判らないこの世の真理を知りたいと願ったし、「人類に宗教って必要なんだろうか?」とか「僕は本当に存在していると言えるのだろうか?」とか闇雲な疑問をずっと抱いたままいい歳をした大人になりました。

このブログの中で時々宗教批判にも見えるような記述をしていますが、もしそれによって気分を害された方がいらっしゃたとしたらごめんなさい。
決して安易な気持ちで書いたわけではありません。宗教を批判したり否定するために書いたのではないことをどうかご理解ください。
宗教に向き合うと湧き起こる更なる多くの疑問や、葬儀や法事といった風習としての宗教行事は受け入れられていても「教え」としては宗教界と一般社会の間に立ち塞がる越えられるとは思えない分厚い壁を感じてジレンマに悩んだ一人として書かせて頂きました。

そしてここで「俗世」という単語を使う無礼を許してください。どうしてもこの言葉を使わないときちんと書けない個人的な意見があります。


.
--- 「俗世」と呼ばれたものを「意識レベル」という単語を切り口にして断面図を描いてみる ---
「意識レベル」という言葉を初めて知ったとき、この単語自体が僕にとってはヒントになりました。
「意識が高い」とか「意識が低い」とか言うと簡単に善悪二元論の「優劣判断」とか「善悪判断」に引っ掛かってしまいそうで危険なんですけど、「世の中には変な事考えてる人もいるんだな~」くらいの気軽さで読んでもらえるとありがたいです(笑)

<善悪判断=排他関係の構築>
ちょっと架空の人物、AさんとBさんに登場してもらいます。

● AさんとBさんがある事柄に対してそれぞれに相反する異なった意見を主張した場合の組み合わせパターンを考えてみます。

  ① Aさんが正解の時、Bさんは間違い
  ② Aさんが間違いの時、Bさんは正解

大事な案件ほどこの2通りの組み合わせとして取り扱われることが多いと思います。ひどい時には意見の対立が原因になって口論になったり喧嘩に発展してしまう場合もありますよね。
またある時には「歩み寄り」という解決策に従って双方が納得しきれないまま両者の意見を部分取りした折衷案に落ち着く場合もありますし、どちらか一方が相手の意見に納得して最終的に二人の意見がまとまる時もあります。


●今度はAさんとBさんが二種類の記号の ○とXのどちらかを無作為に選び出した場合の組み合わせパターンを考えてみます。

 ① Aさん:○ --- Bさん:○
 ② Aさん:○ --- Bさん:X
 ③ Aさん:X --- Bさん:○
 ④ Aさん:X --- Bさん:X
  ※全部で4通りの組み合わせがあります


ここでAさんとBさんに意見の違いが発生した場合のパターンと、AさんとBさんがそれぞれに記号の○とXを選んだ場合とを比較してみてください。
AさんとBさんの意見が相反するものだったとしても、両者が「正解」の可能性はないんでしょうか? 両者が「間違い」の可能性はないんでしょうか? そもそも一致させなければならないようなことだったんでしょうか?


意見の対立から口論や喧嘩に発展してしまうような場合、その時のAさんとBさんの心理状態はどんな様相になってるんでしょう?
なぜ争ってまで意見を一致させなければ気がすまないんでしょう?


この様相は「意見の対立」という局面だとなんだか深刻に感じてしまいますけど、その光景をロックバンドの楽器編成に置き換えると結構コミカルになります。

例えば「ロックはビートだろ!!!」の結果として全員でドラムを叩いてるバンド
 ⇒ それはそれで興味があるけど延々とそれをやられるのはつらい

例えば「バンドサウンドを支えてるのはベースなんだ!!!」の結果として全員でベースを弾いてるバンド
 ⇒ たぶん演奏として成り立たなくはないだろうけど耳が痛そう

例えば「花形はなんといってもギターだろ!!!」の結果として全員でエレキギターの演奏大会をやってるバンド
 ⇒ 楽しそうだけど何かが違う・・・

例えば「魂の叫びを聴衆に聞かせるんだ!!!」の結果として全員でボーカルをやってるバンド
 ⇒ それってもはやアカペラグループ(・。・);


.
--- 「真実は一つしかない」って本当? ---
一般的に「真実は一つしかない」と考える人は多いと思います。
逆に「真実は一つじゃない」と言われると「そんな馬鹿な・・・」という気分になる人も多いと思います。


●過去に根拠を求めた自信が織り成す心理模様
この件を取り上げるとき、先ずは「真実は一つしかない or 真実は一つじゃない」の排他的な二者択一の問題として捉えるのではなく、「なぜ自分は意見を統一したがっているのか?」という着眼点で自分を観察してみます。


この着眼点での僕の意見を「根拠に基づいた自信」を例にとりながら記述します。

旧来の社会は「競争原理」のメリットを大きく持ち上げてきました。僕は学生時代に「ライバル意識を持つことで互いに切磋琢磨して互いに自分を向上させる」みたいな意味合いの説明を学校の先生からちょくちょく聞かされました。その当時はその説明に納得していましたが、今となってはその裏側で発生してしまうデメリットの方が実は大きいのではなかろうかと考えてます。

その理由は先に記述した自分への不健康な心理的圧迫感です。自分の意見に対する他者の反応や評価って、意識的であれ無意識的であれ自分が周囲に発信している自分の在り方の自分自身へのフィードバックですし、それ自体にメッセージが含まれていることもあるので軽視する気はないです。
ただし、過剰に敏感になって反応してしまうとなにかと面倒な事態に発展しちゃいます。
(花粉症を引き起こすあの過敏な免疫細胞みたいな感じ?w)

ただ、競争原理が機能する弱肉強食の生存競争を妄信的に真剣になってやってしまうと、程度の差こそあれ「他者の評価が自分の存在価値」という心理状態になってしまうと思います。
これが善悪二元論と結びついちゃうと、ひどい時には自分の中で「この意見を持っている俺は善! 正反対の意見を言うあいつは悪だ!」ということにしたくなっちゃいます。
というかそう見えてしまう・・・

●意識レベルが変わると理解力が変わる
例として釈迦の有名な言葉を挙げます。

  天上天下唯我独尊 (※注1)
  (現代語直訳:天上界においても地上界においてもただ自分だけが尊い


 この文章を読んであなたはどんな印象を受けますか?

旧来の一般的な感覚でこの文章を字面どおりに読むと、「なんて傲慢な奴なんだ!」とか「自己中心主義ですね~」とか、好意的に読んだとしても「それほどまでに尊いお方なんですね。ありがたや...」みたいなものになると思います。

僕はこの文章を初めて知ったときに「釈迦がそんなひどい事を言うわけがない。何かの間違いだ!」と思いましたよ(笑)

過去に記事にした内容の「分離意識」をちょっと気に掛けて、この文章を読んだ時の感情や思考の流れを観察してみてください。
「分離意識」と優劣判定を善悪でレッテル張りしていく「善悪二元論」との合わせ技でこの文章を読むと、瞬時に「お偉い釈尊 vs 下世話な民衆」の構図の中で、「みんな平等なのにこいつどれだけのぼせあがってやがるんだ?」とか「自分一人だけが尊いなんて言う人はちょっと危ないタイプやね。警戒しなきゃ」とか「尊い方なのだから身の程をわきまえて敬って接しなければならない」みたいな感情や思考が流れると思います。


たぶん釈尊自身は現代でいうワンネスの意識で教えを語ったんだと思いますので、その感覚を見知らぬ通行人との会話に置き換えて想像してみるとこんな感じになると思います。

 釈尊  :「天上界においても地上界においてもただ自分だけが尊い。」
  通行人:「もちろんさ。俺もな。」
 釈尊  :「もちろんそうさ。」

 (空想遊びしてすいません ^^;)


※注1:この文章の解釈は経典によっても諸説があり、そもそも釈尊が生前当時に語ったパーリ語(口語)が最低でも100年間ほど口伝で後世に伝えられた後にサンスクリット語(文語)に文章形態に翻訳され、さらにそれらが中国で経典として漢語に翻訳され、ついでに中国で釈尊の言葉ということにした新規に刊行された経典まで混じって日本に仏教として伝わっているため、本当は釈尊本人が何をどう語ったのかは記録が残ってないです。
でもきっと釈尊が語った本質的な要素は含まれているだろうと思います。
(文章明瞭化のため「文章形態に」、「それらが」、「経典として」を加筆 Jul. 31. 2018)


スピリチュアル( New Age )の中にもこんな言葉があったと思います。

  あなたは存在するだけで価値がある

これはわりと頻繁に目にするキーワードだと思います。
でもこれを重要視する人はまだあまり居ないような気がしてます。

というか、このキーワードの価値を理解できてる人はもう自分への過小評価や罪悪感や無自覚な依存心を乗り越えてる、若しくは少なくともそれが何なのかを自覚できるくらいにまで意識レベルが上がってると思います。


こんなことを言うと中には気分を害される方がいらっしゃるかもしれませんが、その時々の意識レベルによってその人のその時点での視点や捉え方や感覚が変わり、結果的に他の人と同じものを見ていてもそこから読み取る情報の質や量や重要度の度合などの意味合いが変わります。

だから「自分にとっての真実」を別の言い方に置き換えるとこんな風に表現できると思います。

その人にとってのその時の真実は一つ。ただし他の人にとっての真実と同じとは限らない。
そしていつかはそれも変化していく。

こんな感じに表現できると思います。


そこに万人共通の「正解 or 間違い」はないです。その人にとっての大事な意見ほどその人にとって次のステップへの手掛かり・足掛かりになっていくと思います。例え本人がその後にそれを間違いだったと判定しても、そこで新しい何かを自分で発見しています。
だから結果的にそれがその人の大切な成長のステップになります。

そこで正誤や真偽や優劣を判定して固定化させてしまうより、どんな真実もいつかはその真偽や重要度や意味付けが個人の成長に合わせて変わっていく暫定的なものであると承知して、自分の成長が停滞しないように流動性を持たせておく方が大事だと思います。

その人が真実とした意味合いをいつまでそのように保持するか、いつどのように更新するか、どんな風に他の事柄と関連付けていくかは個人の尊厳に関わることです。

判定することに躍起になって自分や他者をその判定の中に閉じ込めて停滞させてしまうより、一人一人が停滞することなく自分で次のステップに進んでいくことの方が大事です。
休息とか寄り道とか迷走とかを全部含めて自由にいろんなことを肉体的にも精神的にも経験したり体験したりする方が有意義のように思います。
もちろん、僕自身も含めて。

これは人間の在り方を不自然な均質化から自然な進化へと戻していくことにもなります。


今まで「正しきもの・悪しきもの」として固定してきたものを解きほぐして流動性を取り戻して再検証し、自分自身と共に全体を再構築していくこと。

その時に、それらの固定化されて硬直してしまっていたものに活力を与えて生き生きとしたみずみずしい流動性を復活させていってくれるエネルギーが全てを認める「無条件の愛」だと思ってます。
たぶんこれがアセンションと呼ばれているものの核心です。

これを言葉を変えて表現するなら、
「愛と自由への回帰」です。



その再検証と再構築の繰り返しは個人差はあっても一人一人の中から始まり、いろいろなタイプの人達のそれぞれの個人の新しい在り方を通してフラクタルに社会の在り方を再検証・再構築の段階へと導いていくことになります。
その再検証と再構築が誰の目にも明らかなくらいに社会現象に反映され始める段階が「光のイベント」と呼ばれているものなんだと僕は認識しています。
そして再検証の側はもう現れていると言っていいと思います。


.
ここでさっきのロックバンドのメンバーに、それぞれの意見を反映した好みの楽器編成で登場してもらいますね。
 ・ビートをバッチリきめるドラム
 ・ドラムのビートとギターの音階をがっつりつなぐベース
 ・きらびやかなサウンドを前面に押し出すギター
 ・楽器の音に埋もれることなく聴く人達を震わせながら響き渡るボーカルボイス
そんなイメージの方がまとまりがあってしっくりこないですか?(・。・)


--- 旧来の社会の奇妙さ ---
映画『マトリクス』(原題:The Matrix)の三部作を観たことがある人はちょっと思い出してみてください。
第三作目(REVOLUTIONS)の終盤に出てくる街中の人々がスミスだらけになっていた不気味光景。
ラストシーンで一旦スミスに同化されたネオが内側から光を発してスミスの殻を割っていくシーン。

あれは何を象徴してるんでしょうかね?

ただの映画の話なんですけど、相手の尊厳を無視して暴力的に相手を均質化していく「スミス」というキャラクターが何を表現していたのか真相は判りませんけど、僕はたぶん「エゴ」の象徴だったと思うんです。
「エゴ」ってあまりいい意味で使われない言葉ですけど、これも自分の信念体系の一部と言っていいと思います。つまり大切な自分自身の一部です。

だからそもそもは決して悪者ではありません。ただ不適切な誤動作をしちゃってる、不適切に過大な権限を与えられちゃってる感じだと思います。

信念体系の一部なのだから、旧来の信念体系を更新して潤いを復活させてあげるとエゴさんの振る舞いも変わり始めます。


子供の頃からの僕の経験を振り返ると、ずっと家庭や地域や学校や会社や社会などの自分の周囲の理屈やしきたりに「自分の在り方」を適合させていくようにしてきたと思います。
そして僕はそれに深く慣れ親しんでいました。今も取り組んでいる最中なんですけど、それは無意識下にある信念と関連して当初自覚していたよりもはるかに深いです。
正直な感想として僕は自分の自由意志を使って自分の生き方や在り方を決めた経験は案外少なかったんだと思います。

それは先に挙げた「根拠に基づく自信」にも絡んで、「他者に認めてもらえなかったら自分の存在価値を失う」という恐怖心の制約を受けて他者に認めてもらえそうなことを狭い選択肢の中から選択してきたと思います。

これは「自由の中に恐怖心で出来た小さな世界を作ってその中で生きることを自分で決めていた」と大きく解釈すればそれもまた自由意志の行使ではあるのだけれど、それはやっぱり圧迫感が強くて面倒くさくて面白くなかったです。
そしてエゴさんが恐怖に従うようなインプットをしてしまった最終的な人物はかつての僕自身です。
それが出来るのは自分しかいません。


.
もしここで「世の中の決まりごとに従わなかったらおかしくなるんじゃないの? あなた大丈夫ですか?」とご心配下さった方がいらっしゃいましたら、大丈夫です!(笑)
以前にブログに『「常識」の外側へ!』という記事を書いたように今の僕は常識なんて相手にしてないです。だからといって意味もなくわざわざ非常識に振舞うような真似もしません。

なるべく他の人に迷惑を掛けたくない。
なるべくお互いが自然に笑い合えるようにありたい。
なるべく心地よく過ごしたい。
なるべく情熱を感じることをやりたい。
もっとそう在れる様にしたい。

案外こんな程度のことだけで特に問題は起こらないです(・。・)
もしかしたら過度に常識を気にしていた頃よりも常識的な人に見られてるかも知れません(笑)


ごくごく大雑把に言ってしまいますけど、エゴさんに誤動作を引き起こさせている主な原因って自分の価値を他者に委ねちゃってることだと思うんです。
それは他者を自分と同じに揃えたくなる心理状態を含めて、自分が決める自分の生き方を他者の意見に合わせたくなる心理状態を含めて。

僕には『マトリクス』で出てきた「スミス」というキャラクターは、自分の存在価値の根拠を否定される前に他者を暴力的に同化することで安心を得ようとするエゴの究極的な様相だったように思えます。
もしかしたら「戦争」という行為の根底にもそういう人間心理が働いてきたのかもしれません。


旧来の社会の奇妙さって、恐怖心に過剰に反応するエゴさんを主体にした在り方をずっと継続してきたことに起因してるように思います。
確かに科学やテクノロジーや経済の発達、民意を反映させる政治・社会システムの発達が人々の人間性や生活レベルや文化の向上に寄与してきたのも事実だと思いますが、それとは別の次元で人類の発達段階が今はもっと個人単位の深いレベルで変容していくタイミングに来ているような気がしてます。
(これは旧来の「聖人」のイメージになるという意味ではないです。本来の自分自身を生きる。素の自分で生きる。自分の在り方や生き方をエゴの自動操縦に任せず自分の意志で自由に決めていくという意味です。)


.
●善悪二元論の分離作用
僕が思う「善悪二元論」の特徴を少し書きます。

善と悪があれば人は善を選択し悪を排他します。そして何を善とし何を悪とするかはそう判断したその人の感覚によります。
以前のブログ記事『自分を愛してください』の経験談で書いたように、自分自身に向けた善悪のレッテル張りは二者択一の排他関係を積み重ねながら自分自身を細かく分断した状態にしていきます。
極端な表現をするとそれはまるで「右手は器用だから善、左手は不器用だから悪。だから右手だけを使い左手は封印してしまえ。」みたいな馬鹿げた行為でした。

人の身体って歩くだけでもそれぞれの部位が全体的に絶妙な動的バランスをとりながら有機的に連動して動く総合体です。
もし仮に左手をギプスで固定したらそれだけでスムーズに歩けなくなります。

これは自分の内側の精神世界も一緒です。自分の内部の一部を分断状態にするとその分だけ精神活動のバランスが崩れます。表面的には判らなくても表層意識としては気づかなくても確実に部分的なロックが掛かるのでスムーズな精神活動を阻害します。

レッテル張りって自分が善悪判定した特定の事柄をパターン化して「善としたものは善」、「悪としたものは悪」のファイルに突っ込んでそのまま信念にしてちゃいます。
他者を見ながら「善としたものの証拠探し」、「悪としたものの証拠探し」をする事はあっても過去に善悪判定したものを自発的に掘り返して再検証することはあまりないんじゃないでしょうか?

仕事場や住居の整理で一度ファイリングした資料や箱に突っ込んだ持ち物って、ほぼ入れ替えすることなくそのまま長期間ほったらかしちゃうあの感じです(笑)
そうです! そうなんです! だから今回の僕の全身全霊の掃除で捨てるものがビックリするほど出てきたんです (・x・)b


●俗世
旧来の社会をごくごく単純化してしまえば「悪者を探し出して排除することで恐れによって慢性的に維持されている不安感を解消して安心感を得る」を繰り返していたと思います。

それは今までは必要な事だったのかも知れないです。実際にそれによってもたらされたメリットもたくさんあると思います。

ただこれは、逆説的な表現をすれば「悪者に依存しないと成り立たない意識レベルにあった」とも言えます。

そしてその意識レベルにあまりに長期間に渡って留まり続けてしまって、これ以上このまま突き進むわけには行かないところまで来てしまったんだと思います。

大学生の頃にどうしても判らなかった疑問の一つの「俗世って何???」の答えとして今の僕はそれをその結論としています。


さらに言えば「それは宗教みたいだからダメだ」のレッテル張りに安心感を覚えて思考停止する意識が「宗教」というカテゴリーとフォーマットを作り出して維持している俗世の意識レベルです。
「宗教者としての振る舞いとは・・・・」と宗教に無茶な聖人像をレッテル張りして安心して留まり続けようとするのが俗世の意識レベルなんだと思います。


.
=== 光と闇 ===
このブログを読んでくれている方々は「光と闇」という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。

この「光と闇」をこれまでの慣れ親しんできた習慣どおりに「正義と悪」の軸で捉えてしまうと何がなんだか意味が判らなくなっていくと思います。

僕はこれを光からの「支援の用意はあります。 意識レベルを上げながら進化しますか? このままのレベルでいますか?」の単純な呼び掛けだと思っています。

ちがう言い方をすると「愛が好きですか? 恐怖が好きですか? あなたは自由に選べます。」の呼び掛けと言っていいと思います。


一方、闇に分類された人達のことを調べていくと嘔吐しそうになるほど酷い話がたくさん出てきます。
(だから他の人にこの件を調べ過ぎて欲しくないです)
でもそこに惑わされて「こいつらを排除すれば状況が良くなる」ということだけに思考を奪われてしまうとその本質を見失ってしまう危険があります。

この光からの呼び掛けは、今の時点で「闇」と見なされている人達にも差し向けられていることに気づいてください。
共に存在するものとしてまったくもって平等に対等に...

自分が自分の進化を選ぶために必要とされる条件なんて何もないです。
自分の進む方向性を決める者は自分以外にどこにもいないです。


これは単に一人一人の個人に対する呼び掛けです。
この意味でどこからともなく現れる「正義の味方」はどこにもいません。
ただ、その人が新しい一歩を踏み出していくたびにそれに不慣れな人を手助けしてくれる誰かがそのつど必ずいると思います。


闇と言われているものの本質はその悪行と言うよりむしろ人々をこれまでどおりの分離意識の枠の中に閉じ込めて旧来の意識レベルに留まらせようと画策する点にあるように思います。
どうぞ彼らが繰り出す幻影の術に惑わされないで。

僕自身の経験談として、エゴさんから自分の主導権をチェンジしてもらう時にもいろいろな幻影の術を駆使してきます。
あなたが進化することを選ぶなら、どうぞ惑わされず愛を選んでください。

そしてどうか、エゴさんはこれまであなたのために頑張ってきて、これまでそのメリットを受けてきたことを忘れないで下さい。

許す自分は許される自分。
手放す自分は新しい在り方を選ぶと覚悟を決めてそれを解放してあげる自分です。



=== その人にとっての最善は千差万別 ===
僕はいつもこのブログの中で「自分を愛する」と「素の自分」を軸にして「意識」を主要な着目点としながら記事を書いてきました。現時点では僕個人のこの方針は多分ずっと変わらない気がしてます。
ただし、記事中にもところどころに入れているようにこれは「自分の真実」としての個人的な意見と経験談です。

僕はそもそも理屈っぽくて頭が固いタイプの人間でした。こんな僕が踏み出した最初の一歩は「論理が絶対」という信仰にも似た信念を捨てて「感覚が全ての源」という領域へ飛び込むことでした。
この時、僕は本当に怖かったです。その向こう側に行ったとき、そこに飛び込んだ自分が本当に生きているかどうかすらはっきり判らなかったです。
実際に心理的にそこへ飛び込んだとき、5分間ほど呼吸が乱れ過ぎて死ぬかと思いました(・。・);

だから僕と同じタイプの人向けに理屈を使ってそのハードルをできるだけ下げてしまいたかったのがこのブログを始めた動機の一つです。
そのためにここに書いている内容は論理と感覚の狭間あたりの内容にとどめています。
実際には人類の進化とはその両側に向かって芸術的な内容や宗教っぽい内容も含めて、科学技術に関するものや哲学・形而上学的な内容も含めて何の矛盾なくもっともっと無限に広がっていくと思っています。

僕の理屈っぽい性格は今でも変わってないです。ただ以前のように論理を妄信した理屈の下僕ではなくなりました。
逆に、論理ってポエムや小説や絵画やイラストや音楽やダンスや運動などとまったく並列な表現手法の一つでしかないと納得した時から、僕の文章表現力は向上したと思います。


だから僕の少し理屈っぽいこのスタイルの文章は、単なる僕の個人的な趣味でしかないです。
感じたものを少し理屈っぽく文字で表現した「感想文」でしかないです。

どうか理屈や論理に不適切な価値を置かないでね。ましてやこの件に関してポエム調に書かれていたり情緒的に書かれた文章を盲目的に否定したりしないでね。

僕は「意識」を主な着目点にしているけれど、感情や行動、その他の一連を否定していないことに気づいてね。

僕は自分自身を掘り下げるルートを進んでいるけれど、最善のルートは人によって千差万別で、その幾千幾万もの個性的なルートが次の時代の社会を織り成していくものだと確信しています。

僕はなるべく平和的な手法を模索して行っているけれど、それとは違って実行的に旧来の社会の問題点を無力化していくルートを辿っている人達もいるんだろうとも思ってます。
(もちろん「俺様つよいんだぞ」みたいな不適切な自己陶酔の暴力行為とは違うレベルでね)


今いろいろなタイプの人がそれぞれに自分の特性や個性を生かして歩き始めてると思います。どうぞ自分自身を生かしてこれまで以上に生き生きとみずみずしく輝いていって下さい。

そして「これは絶対こうなんだ!」とか「本当は○○なのにあなたはXXXX・・・」みたいな他者やエゴさんの声に惑わされず、自分を信頼しきってあなたしか知らない、あなたにしか体験できない本来の自分へ向けて進み続けていってください。
もちろん僕のこのブログも含めて。 僕自身も含めて。


人類が持っている進化の伸びしろは果てしないです。
たぶん間違いなく...


.


.


.
最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう!

拍手[0回]

PR

おまじない

こんにちわ!

春の陽気が心地よい今日この頃
みなさん いかがお過ごしでしょうか?

今回は僕が使っているおまじないの一つを紹介したいと思います。
これは以前に心の声として出てきたものなので、他の人に効用があるかどうかは定かではありません。
もしどこかに必要としてくれる方がいらしたら受け取ってください。

-----------------------------------------------------------------------------

私は地球の一部です。
それはそのまま宇宙の一部でもあります。
もし何か暖かいものを感じたなら、それはきっと何も選別することがない無条件の愛です。
全ては最初からここにあった...

-----------------------------------------------------------------------------


.

「今」という特別なひと時を共にしてくれる皆さんに感謝します。
ではでは、またどこかでお会いしましょう!

拍手[0回]

ごめんやけどお気に入りのアニメを語らせて!(笑)

こんにちわ!

寒いながらも空の感じが一段と透明感を増してきた気がする今日この頃。
みなさんいかがお過ごしですか?

今日は何故だか唐突にアニメの話を書きたくなってしまったので、お気に入りのアニメ作品について書かせていただきます(笑)

.
「このタイミングでアニメの話か!!!」と怒らないでね♪

.
読者の方にのんびり楽しんでいただけたら幸いです。

.

僕は結構いい歳をした大人なんですけど、去年から少し古めのアニメ作品を頻繁にレンタルしてきて観るようになりました。
念のため主張しておきますけど僕はアニメオタクではありません。
少なくとも西暦2016年までは...(笑)

アニメに熱中していた想い出は思春期の頃に『機動戦士 ガンダム』(最初のシリーズ)を毎週欠かさず熱心にテレビで観ていたのが最後の記憶です。
ちなみにこれも当時の僕には衝撃的な作品でした。

この作品が登場した1980年頃までのアニメ作品は善と悪がはっきりと分けられていて「正義の味方が悪を滅ぼす」というお決まりのパターンが繰り返されていた時代です。
そんな中でこの作品だけは「どちらも善とは言えない。でも悪とも言えない。何が善で何が悪なのか判らない」というストーリーが展開されていました。
あの頃の僕はそこに引き込まれていたんだと思います。

どうでもいい話ですけど、僕の父は頑強なまでに「正義」とか「正しい」にうるさい人でした。その頑固親父っぷりはもう凄かったです。
子供としてはいい迷惑だったくらいに... w(・x・)w

たぶんその頃は社会の雰囲気が全般的にそういう時代だったんでしょうね。
こんな事を書いてる僕もそんな父の影響もあって当時はすっかり「正しい」を気にする子供でした。

.
その子が今では善悪の両方を越えようとする大人をやってる不思議がここにあります(笑)

.

=== いま一番のお気に入り作品 ===
みなさん『攻殻機動隊』って作品をご存知ですか?
これって映画が公開された1995年・テレビ放映が開始された2002年当時から巷で話題になってかなりの熱狂的なファンを集めた作品らしいです。
昨年ハリウッドで改めて実写版としてリメイクされたくらいですからすごい人気作品だったんでしょうね。
(個人的な感想としてはこれはアニメで観た方が魅力的です。この作品を実写で撮るのはいろいろな意味でどうしても無理がある気がします...)

ちなみに実写版の『攻殻機動隊』はアニメ版の世界観や含まれているメッセージを削り過ぎていて使われている名称は同じでも内容としては全くの別作品になっています。
この記事で僕が記述している内容とハリウッドで製作されたものは無関係であることをご了承ください。(補足のため二行追記 Jul. 27. 2018)

僕はこの作品が持てはやされていた当時のことを知らなくて、去年の春くらいにいつも面白い話をする経済評論家のyoutube番組でこの作品名を知りました。
その論者は素人には理解が難しい専門的な話に笑いを織り交ぜながら世間に流布している一般的な通説を理にかなった論説で壊しながら斬新で新鮮な知識を提供してくれる人でした。
その頃の僕はその人が出演している番組を好んで検索して見ていました。

その方がこの作品のファンらしく、2~3番組ごとに1回はこの作品名を持ち出すのでだんだん気になってきてなんとなくレンタルして観たのが最初の切っ掛けです。

.
--- 『攻殻機動隊』に描かれている世界観 ---
時代設定は西暦2030年くらい。
大多数の人々が自らの脳みそを含めた身体の一部または全部を電子化・機械化している時代。
産まれながらの生身の部分とサイボーグ化された部分を併せ持つハイブリッドな人が殆どで、身体の機械化率も使用パーツの性能もそれぞれにバラつきがある人々で社会が構成されている近未来世界。

表向きは警察機関の部署と位置づけられている公安9課に所属する「少佐」と呼ばれる女性主人公(草薙素子)と彼女が率いる6人の部下が権力や社会の闇に潜む巨悪と対峙しながらそれぞれが織り成す人間模様を描き出している作品。
公安9課のメンバーは法的には警察官ではあるが実際には軍隊のレンジャー部隊員と同等の戦闘力を持つ特殊戦闘員であり、組織としても実質的に警察の命令系統から外れた独立部隊として存在している。

.
--- GHOST IN THE SHELL(殻の中の幽霊) ---
『攻殻機動隊』の副題として用いられている「GHOST IN THE SHELL」(殻の中の幽霊)という原作者独自の概念は作品全体を支える背骨のように全話に貫かれていると思います。

作品の中の人々の一般的な心理を推測すると、身体の大部分をサイボーグ化し、頭脳までも能力向上の為に電子機械化した状態で生きる日々の生活は潜在的に「私は本当に私なの?」という不安を生み出しながらも無意識的にその疑問に自分が気づいてしまわないようにそこから目を逸らす生き方を模索する自己矛盾を抱えているように見えました。

僕にはこの作品に出てくる登場人物の全てがそれぞれに本当の自分を探しながら、そうでありながら同時に本当の自分から逃げようとしているように感じます。

だからなのかも知れませんがシリーズ第2作目『攻殻機動隊 S.A.C.2nd GIG』の最終話の中で描かれていた、言葉にするだけで壊れてしまいそうなほどに淡くほのかなラブストーリーのシーンで僕は泣きそうになっちゃいます(笑)
その一瞬だけ、ほんとにその一瞬だけ、殺伐とした人生を送ってきた主人公が「少佐」でもなく「女」でもなく、僕にはただそこにいるそのままのその人に戻ったように見えました。

.

この作品群は全体を通して「人間とは何だ?」、「自分とは何だ?」という問い掛けを僕に提供してくれます。
僕はそれがとても嬉しかったです。

.

=== キーワード ===
去年ふと気づいたことですけど、「この社会は何かがおかしいよ」とか「こんな考え方もありますよ」といたキーワードが自分が気づかなかっただけで以前から数多く巷に出回っていたんですね。

有名なのは映画『マトリックス』の3部作。
この第1作目が公開された西暦1999年頃の僕は単なるアクション映画として楽しむだけでした。
去年改めてこの3作品を観た時は以前とは全く違う着眼点でメッセージを見つけ出しました。

そういうメッセージとなるキーワードを含んだ作品って案外たくさんあるようです。
去年から僕はアニメ作品を中心にそういうものを探していました。
密度という意味ではかなりバラつきがありますけど、わりとそういうものを含んだ作品はたくさんあります。
その手のメッセージって現状の社会通念や個々人の一般的な信念と競合してしまうので「作り話」として映画やアニメに挿入するほうが発信しやすいのかも知れませんね。

.

--- アニメ作品として気になったもの ---
『攻殻機動隊』(STAND ALONE COMPLEX / S.A.C.2nd GIG / ARISE 3シリーズ及び劇場版 )
『涼宮ハルヒの憂鬱』(及び劇場版)
『コードギアス 反撃のルルーシュ』・『コードギアス 亡国のアキト』・『コードギアス 反撃のルルーシュ R2』
『楽園追放』(劇場版のみの作品)
『異世界の聖機師物語』
『ゼロから始める魔法の書』
『新世紀 エヴァンゲリオン』

エヴァンゲリオンなんか1995年テレビ放送開始の古い作品なのにモロに人類の進化をテーマにしていてちょっと笑いました(笑)

.
--- 映画作品として気になったもの ---
『マトリックス』(3部作)
『美しき緑の星』(フランス語原題:La Belle Verte)
『アバター』(原題:Avatar)
『ジュピター』(原題: Jupiter Ascending)
『メッセージ』(原題:ARRIVAL)
『ミムジー ~未来からのメッセージ~』(原題:The Last Mimzy)
『ソフィーの世界』(ノルウェー語原題:Sofies verden)

.
他にもいろいろあるんだと思います。

.

--- 見たいものは何? ---
僕は映画『ソフィーの世界』の原作となった哲学思想の歴史をソフィーという少女が精神的に成長していく様子になぞらえて綴った書籍(同名タイトル)が面白くて好きだったので西暦2000年くらいにDVDを買いました。
最初に見たときは書籍の内容どうりではなく独自のストーリーが展開されていたことが不満で一度観ただけで本棚に放置したままにしてたんですけど、今年の元旦にふと目にとまって改めて見直したら案外メッセージがたくさん織り込まれていました。

経験談としての意見ですけど、人間ってやっぱり見たいものしか見てないんだと思います。
今の僕は新しい時代が到来する気配や既に張られた新時代のための伏線や現在の進展状況を知りたいと常に望んでいます。
だからそれに応じたものを見つけ出してるんだと思います。

言葉を変えれば「人間は望んでいるものを知覚する」という事だと思います。
こんな言い方だとそれが人間の欠陥のように聞こえてしまうかも知れませんが、僕は逆にこれによって人が人として存在できているように思います。

.
みなさんは「ホワイトノイズ」という言葉をご存知でしょうか?
例えば音楽のような音の情報でいうと、耳で聞き取れる20ヘルツの低音から20,000ヘルツの高音までの全帯域の音が同じ音量で鳴ってるような状態です。
これを聞いてもただの不規則で意味の無い雑音でしかないです。いわゆるカオス状態です。

人間の認知を考えてみたときに、先述したアニメ作品や映画作品を完全に全く何も望まずに観た場合どうなるんでしょうね?
僕にはそんな事できないので推測でしか言えませんが、おそらく時間を浪費すだけで何も感じることなく何も印象に残らない無意味なものにしか見えないと思います。

身の回りや世の中で展開される数々の事象に対して、全く何も望むことなくそれらを知覚してしまうとただのホワイトノイズの状態(カオス状態)としか知覚できないような気がします。
それでは自分が何を知覚しているのかも、それ以前に自分が本当に存在しているかどうかすらもハッキリ判らなくなくなってしまうから僕らは自覚すらできないくらいの精妙さで「自分の望み」に沿ったモノを目の前に展開される数々の事象の中から見い出し選び出し、それに相応しい独自の意味を付けて自分だけのストーリーを綴ることをスムーズに全自動でやってのけてるんでしょうね。
その中で各自が自分だけの独自の世界を展開させているんだと思います。

これはつまり自分の望みを変えることによって周囲にある事象から見い出すものを変更し、それに相応しい新しい独自の意味付けを展開することで自分にとっての新たなストーリーと新たな世界観を顕にすることが可能であることを意味しています。
僕が昔見た映画作品から以前とは違うものを見い出したのはそのせいだと思います。

「フォーカスしてください」という言葉もこの人間の性質を活用して、しっかりと本来の望みを意識することによってしっかりとした新たな世界観で新たな行動と成果の獲得を促す意味だと受け止めています。

.

--- 思考の選択 ---
前回の記事で僕は「好み」という言葉を使いましたが、僕がこの言葉に込めた想いは「それってほんとに好き? ほんとに自分に相応しい?」という問い掛けを込めて言葉を選びました。

これは僕自身もしょっちゅうやってることなんですけど、ついついネガティブな思考に自分が支配されてしまったその時に、もし心に余裕があったらちょっと立ち止まって自分自身にこんな問い掛けをしてみてください。

「こんな考えは好き? この思考は自分に相応しい? こんなことを自分は望んでる? どう?」

.
僕はたいていの場合、「やっぱりこれやめた」で終わります。
その時のモヤモヤしているそのネガティブ思考はイメージの中で光の粒子でできた煙の塊に置き換えて「気が済んだよ。ありがと~」とお礼を言ってからサラサラと風に流します。

ただ、敢えて「ネガティブでもいい!」と決めた時はそのまま行っちゃいます(笑)
当然、その結果は自分で受け取る覚悟の上でね。

.
それとは逆に突然いいアイデアが閃いたら「それいいよね!」って自分を認めてあげたらいいと思います。

.
僕は自分の思考に対して主体的に自由意志を行使して意識的に自分の思考を選んでます。この行為は充分に主体的でポジティブな生き方だと思ってます。
よく「ニュートラル」という言葉を見かけるんですけど、僕にとってのニュートラルな立ち位置は自分の思考を意識的に選択するここにあると思ってます。

.

--- 思考から行動へ ---
前回の記事で「心で考える」を紹介しましたが、誤解のないようにもう一度補足しておきます。

これは何よりも先ず「できるだけ心を自由にすること」が最も重要なポイントとなります。
その次にその自由な心の感性で可能性を広く見渡していってください。

僕もそうなんですけど、新規に何か新しいことをやろうとするとついつい不安な気持ちに引きずられて詳細な行動計画や厳格な目標設定や達成条件ばかりに気を取られて結果的に可能性をどんどん狭めていって思考が袋小路に入っていってしまいがちになります。
これって先ずは不安や恐怖から考え始める頭の思考が先行してしまってるからだと思います。

.
日々の日常生活の中から行動を選択するときは先述した方法で一連の流れの中から行動を選択すればいいのですけれど、まったく新規に新たな事を始めようとした時はなかなか大変ですよね。

そんな時はリラックスしてゆったりと柔らかく心を広げて、素の自分として自分が想い描いている周囲の様子や自分の姿を自由に感じるところから始めてみるのもいいかも知れません。

その感覚の世界の中で素の自分として「どんな感じのことをしたいか」をぼんやりと空想してみるといいと思います。
「こんな感じのことをしたい」とおおまかに感じ取れたら、その感じを物質世界で表現するとしたらどんな方法やどんな媒体を使ってやりたいかをまたゆったりと空想していくといいと思います。

あくまでも「望み」を基軸にして自由な心が先行していくように気遣ってください。
おおまかに全体的な「まとまり」が出来たら自分が「こんな感じでいいな」と思えるまでその「まとまり」を微調整してみてください。

頭の思考での理屈が必要になるのはほんとに最終段階でいいと思います。
理屈は他の人や自分の脳みそさんに説明するためのものだと割り切ってもいいと思います。
案外理屈なんてそんな風に後付けの補助役に徹してもらった方が論理展開の自由度が増して活用しやすいです。

.
あと、なるべく小さな規模から始めるほうがいいと思います。
思考の主導権を自由な心に渡して、心の自由さに見合った規模で思考してみてください。
あまり懸命になり過ぎないようにしながら「練習気分」か「遊び感覚」みたいな気楽さで楽しむように試してみてください。
上手く行かないなら何度でもやり直せばいいし、日を改めて試してみてもいいと思います。

もし途中でワクワクするものを見つけたら迷わずそれを選べばいいです。
「ワクワクする」も「直感」と同じで肉体側の自分にはその理由は判らないけれどとても重要な情報であるという点で同じだと思います。

.

--- 「キーワード」に望んでいることは何? ---
スピリテュアルの世界で「キーワード」と呼ばれているものは沢山あるようです。
ちなみにあなたが「キーワード」に対して望んでいることは何ですか?

前回の記事でも書きましたけど、僕にとって重要なキーワードは「自分を愛する」と「素の自分の探求」の二つだけです。
他の情報は僕にとってはこの二つをスムーズに機能させるための補助知識くらいかな?

もし自分を樹木に例えると「自分を愛する」は水分や栄養分を集め自分自身を支える根っこです。
「素の自分の探求」は種子が苗となり、さらに大きく生長していく生命力です。

成長していく過程でも、ふと根っこが接している部分におおらかな大地があり、そこに水分や栄養分が用意されていて、そこにはそこの生命活動があることに気づきます。
成長していくうちに自分に枝葉がはえてきて実りがもたらされることにも気づきます。
自分の周囲に光や風や、時には雨や嵐があることにも気づいていきます。

僕はそんな事がとても嬉しいです。

.
僕にとってのキーワードとは、字面のテキストデータとしては変化が無いままにその言葉が指し示す意味内容の深さや広がりが自分と共に変化して自分と共に成長していくものです。
つまり「真実は多元的」です。

もし仮に、キーワードと呼ばれる数多の言葉を「情報の断片」と捉えてキーワードを全部集めれば情報が完成すると発想してしまうと抱えている問題がかえって面倒な事態に陥ってしまうような気がします。

.
とても意外な事ですけれど、自分は自分のことをよく知らないんですよね。
映画『マトリックス』の預言者の部屋の壁に掛けてあった木の板に書かれていた『己を知れ』という言葉も同じことを指し示していること思います。
『己を知れ』という言葉を記憶するだけで終わるテキストデータとして捉えると全く価値が生まれません。
己を知ることにどれほどの絶大な価値があるかを言葉で説明することは可能でしょうけど、その文章を知識として記憶するだけなら自慢話のネタくらいしか活用方法はないと思います。

この言葉が価値を発揮するのは、自分が自分を感覚的に理解できたその瞬間ですよね。たぶん...
 
好きなキーワードの中で一つでも身体の細胞達が納得するくらいに感覚的に理解できたら、記憶の段階で留まっていた他の知識が連鎖的に理解できたり、新たに別の有益な情報を見つけ出してどんどん吸収できるようになったりすると思います。(補足のため一行追記 Mar. 4. 2018)
 
.

--- 涼宮ハルヒの憂鬱 ---
人生を思い返すと意外な事に僕は自分のかなりの部分を自動操縦で生きていたような気がします。
出来事に反応していつものように泣いたり笑ったり、時には激怒したり誰かを大絶賛したり・・・
それでもふと我に返った瞬間があったりもしました。
その我に返った瞬間、自分のその時の姿を見つめていた自分が確かにいたような気がします。

※最後に『涼宮ハルヒの消失 劇場版』の中に出てきた僕の大好きな言葉を記しておきます。

 ・・・ 私 は こ こ に い る ・・・
.

.
なんだかよく判らない長文に最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう!

拍手[0回]

心で考える

こんにちわ!

ひそやかに季節と雰囲気が移り行く今日この頃。
みなさん いかがお過ごしですか?

僕は8月末から現在に掛けて、自分の「望み」や「好み」や「信じていること」などが本心からそうなのかどうかを試されるような出来事が頻発していました(汗)
やっと一段落ついて落ち着きを取り戻してきた感じです。

これは僕だけなのかな???
もしかしたら「今がそういう時期なのかも知れない」という感じがするので今回はこの記事を書いてみます。

今回は僕自身が行っている「素の自分」を求める旅の一端を記述するつもりです。
いつも個人的な妄想記事を書いてますけど、この記事は特にその色彩が強いかもしれません(・。・);
そんな内容でもよかったらしばしお付き合いください。
読者の方々に楽しんでいただけたら幸いです。

.
僕にとって去年の秋から現在までの1年間は自分の人生の中で物事を捉える感覚がめまいを覚えるほどに激しく、しかも駆け抜けるように急速に変化していった時期でした。
その間ずっと、自分の目の前で起こる出来事や過去に抱え込んでしまった辛い感情などを自分自身が一歩さがって自分の様子を眺めて観察してきました。

・僕が今この瞬間に感じているこれは何だろう?
・何故僕はそう感じている?
・そう感じる自分の心理メカニズムはどんなシステムになっていて何がどういう関連で何と連鎖してどのように働いているのかな?
etc...

特に内観や瞑想で自分の内面を探索する時は、そんな自分がいる事を認めることすらつらい自分の側面にも遭遇しましたけど、それでもどんな側面も認めて自分を理解していく行為は僕にとってすごく面白い体験だったし有意義で楽しい経験でした。自分の人生がこれほど楽しいと思えたことはこれまでになかったくらいです(笑)

その探検で発見したり気づいたりしながら変化していく自分は、過去に社会通念の価値観を鵜呑みにして矛盾だらけになっていたずらに自分を苦しめた自分の内面を掃除して、歪んでしまっていた精神構造をより自然な本来の在り方に回帰させながら「素の自分」に近づいていく冒険の旅でした。
そして今後も、出会っていく新しい自分の側面と共に変容しながらもっと本来の自分でより自然に生きていくことを楽しみにしています。

この秋からは自分だけでなく社会の様相もどんどん変化していて、今年が明けた1月の頃より自分の変化も社会の変化もそのスピードが共に加速していってるような感じがしています。
「変化」と聞くとついつい身構えて硬直してしまいがちになるけれど、ここまでくると過去の在り方に固執して不安がるよりも、ちょっとドキドキしながらも覚悟を決めて新たな在り方に向かって変容していく自分をおおらかに見守ってあげた方が気軽でいいな~と日々を過ごしてます。

みなさんはどんな感じですか?
いい感じ?

.
=== 人と社会はフラクタル ===
僕はこの1年ではっきり判ったことが一つあって、以前は「自分の外側にあるものを自分に追加すると自分がよくなって生きやすくなる」と考えていましたけど、真相は全くその逆で「自分の内面の反映が自分の外界に出来事として登場している。生きやすさも生きにくさも実は自分が決めていた。」というのが事実でした。
(当然、現象として出来事が登場する前段階ではとても微細ないくつもの選択を含めた本心の選択を認めて日常生活で行動に移すことが前提ですけどね。)
自分という存在が自分の周囲で発生する出来事を決める発信源だったんです。

これはある意味怖くもあるけれど、やっぱり自分に関わるこの主導権は自分が責任を持って握っているほうがいいなと感じてます。
僕がかつてこのブログに書いた「自由と責任」とはこの意味で書いています。

たとえ表面的にはポジティブな行動であっても本心がしかたなく嫌々やることを決めたのであれば、結局は「嫌々やる」と決めた選択の結果が出来事に反映されてしまいます。
旧来の感覚で「責任」と聞くと失敗したときに周囲の人達から失敗したことを責められるイメージがなんとなく付いて回ると思いますけど、そんな旧来の意味とは全く別の「本心が決めたとおりの結果を受け取る」という新感覚の意味での「責任」です。
その責任には仕事の時に求められるような「目標を達成しなければならない」みたいな義務なんかもありません。仮に失敗して残念な状況が訪れたとしても、いつまでもそこに留まり続ける必要もありません。
もし自分ではっきり「間違いだった!」と納得したらそれを成果として受け取って即座に新しい方向性で新しいことを始めればいいだけです
それだけのことだったんです。

現代社会が持つ問題の数々を生み出す根源的な問題の一つがこの旧来の意味での責任に付きまとう表面上の自分と本心の自分との矛盾に象徴されていると思います。
僕は、失敗した時に周囲から責められるのを嫌って自分の決定権を自分ではない他者に預けてしまい、自分自身に関わる主導権まで他者に任せて思考の内容や行動を決めてしまう没主体的な生き方が現代社会の抱える数々の矛盾を生み出した原因の一つだと考えています。
(主導権を預ける先を例に挙げると「権威」とか「権力者」とか「偉い人の考え方」とか「みんなの意見」とか「常識」とか過去の成功パターンとか・・・)
世に出回っている情報の全ては自分にとっての参考だと思います。僕はこの1年で情報とは自分にとってどんな価値や意味を持つかを自分が自分で決めるものだと考えるようになりました。

誰かが僕にどんな意図でどんな事を言おうが自分の人生を歩むのは自分一人だし、自分の人生の喜びも苦悩も最終的に引き受けるのは自分一人です。
他人を批判していい気になる人の言動も、正義を力説する人の言説も、「これが本当のことなんだ!」と自分の意見を押し付けようとする人の言葉も、偉そうに「現実を見ろ!」と説教してくる人の視野の狭さも最後は僕の人生の責任を引き受けてくれません。彼らは最初から他者の責任を引き受けるような能力なんて持ってないんです。
思い返してみると他者にとやかく言う人ほど相手のことを判っているような口ぶりでレッテルを貼ってきたり誰の事を言っているのか判らない決め付けでいろいろな事を言ってきますが、安易にそんな態度をとる人に高い理解力や洞察力があるとも思えません(・。・)

素の自分を探索していくと「自分」という存在が持つ多様性やその深さに驚くことになると思います。
自分自身ですら理解しきれないのに他者にすべてが判るわけないです。

だからそんな人の意見も参考としてはありがたく頂きますけど、僕は自分に何をどう受け入れて何を拒否するかを自分に対して自分で責任を持って主体的に自由に選択する覚悟を決めました。
そう覚悟する方が本来の僕の性格にもあっている気がします。
他者の言いなりになって結果的に他者の言いなりになる人生を自分が引き受けてしまうのはあまりにも馬鹿馬鹿しいです。
結果の出来栄えに関わらず自分にとっての最良の選択を自分で決めていきたいです。

僕の西暦2017年はまさにその方針転換を少しづつ実践に移した年でもありました。
しんどいこともあったけど、いい歳をした大人になっても旧来の固定観念を「去り行くもの」として手放しながら新しい視点や感覚で生きるのもなかなかいい感じです。

.
--- フラクタルとして眺めてみる ---

みなさん「フラクタル」(fractal)という言葉をご存知ですか?

大雑把に言えば「全体像とそれを構成する要素はそれぞれの基本的な形状や構造がよく似ている」みたいな意味です。

僕はいつの頃からか、なんとなくですけど自分の頭の中の様相と人間社会の様相がリンクしているように思えてならない不思議な感じを持っています。
まるでフラクタルな関係のように自己相似形をしているような感じです。

こんな突拍子もないことを言うとどこからともなく 「あなた... アホですか???」という声が飛んできそうですけど・・・

はい... アホなんです(・。・);

ただ、そんな感じを自分で認めたときに「自分が創造主」という言葉の意味がなんとなく判った気がしました。
僕自身が自分の在り方に似せた感じで自分の周囲の世界を創り出してるような気がしたんです。

.
どうでしょう?
そんな気がしませんか?

.
実際に自分の内面を自分のいろいろな側面を認めて愛で統合しながらしっくりくる感じに整えて自分自身に対する態度を変え始めた頃から、身の回りの人達の表情や態度や出会う人のタイプなども変わっていきました。
きっと人は自分を幸福にも出来るし不幸にも出来ます。どちらも自由に決められます。
ただ、今のところその制御に慣れてなくてまだ下手なだけなんだと思います。

.
僕の持論として、肉体を持たない純粋な悪魔さんは実は人々に対して直接的に何も手出しをしていないと思ってます。
人間がもつその能力を利用して人間同士が勝手に勘違いして勝手に自虐行為におよんだり勝手に相克関係を築くように仕向けているだけだと考えています。

このイメージもいつの頃からかなんとなくずっとあるんですよね。
旧約聖書『創世記』に記されている楽園追放の話に出てくる「蛇」みたいなイメージです。
蛇はエバをそそのかしはしたけれど、アダムにもエバにも直接的な打撃は与えてないんです。直接的に打撃を与え合っているのは人間側のアダムとエバなんです。
ついでに言うと、アダムとエバが気まずい関係になった原因が「善悪の知識の木の実」という名称なのも僕にとってはなんだかとても象徴的なんです。

僕が持ってる肉体を持たない悪魔さんや人間の相克関係や善悪二元論に対するイメージが不思議とこの楽園追放のイメージと重なってきます。

.
そんなこんなのぼんやりした想いもあって、僕は社会の構成要素であるその人の内面に従った個人の生活態度や行動が人の数だけ無数の発信源になっていて、それぞれの人の個性や考え方などに似合った小さな世界がまるで雨に打たれた水面のように小さな波紋を描きながら社会全体の様相を創り出してるんじゃないかなと考えています。
前回の記事で一人一人の「意識」や「思考」に言及したのもそれらに呼応した生活態度や行動を包み込みながら生み出している「母体」という意味を込めてこのフラクタルな社会のイメージに基づいて書きました。
新しい自分の内面から自分の外界へアウトプットした小さな世界が相乗効果で大きな社会変動と新しい社会の在り方を創りだして行くみたいなイメージです。
自分の特性や個性を自然にスムーズに無理なく発揮して互いに生かし合う幸せを望む自分の内面を外界へ素直に反映させていくと、結果的に自然に無理なく社会全体を新しい様相に変えていくようなイメージを持ってます。
医療に例えるなら東洋医学的な対処法ですね。

現実的のような非現実的のような話ですけど、僕はわりと真剣にそう考えてます。
なぜなら僕は人が持っている可能性を信じてるから。

だから案外、自分が愛で自分の中を統合しながら自分の中に平和で楽しくて分け隔てのない調和の取れた内面世界を自然な感じで成立させていくことってすごく大事なんじゃないかなと・・・
素の自分から発した想いに基づいて自分の周囲と幸せを求めて生きていく感じが、一般人として暮らしている自分としては社会に対しても個人としても無理がなくて現実的で有益だと思ってます。
これはこれでなかなか上手くいかないけど、古いものと新しいものが行ったり来たり右往左往したりしながらもそんな感じで個人と社会が同時進行で変容していくと信じてます。
(いま社会が騒がしいのも大勢の人達によってそれが進行中だからではなかろうかと...)

.
僕にとっての捨て去る古いものを象徴しているのは「善悪二元論」で、新しく手に入れたものを象徴しているのは「ワンネスの可能性」です。
まだ詳しく文章にしたことはないですけど、僕はこの両者に対して結構深い思い入れがあります。

.
そうそう、前回の記事で少し強い語気で善悪二元論のことを書いてしまったのでもしかしたら読者の方に誤解を与えてしまったかもしれません。
とても大事なお願いを一つだけさせてください。

決して善悪二元論を「悪い」とは思わないで下さい。
これは「越えて行くもの」です!!!
.
自分が「越えたい!」と望んだときに越えていくものです。

.
というのも善悪二元論の特性は一旦その世界からある程度でも出た後で、後ろを振り返るように眺めて総合的に解釈しないと何がどうなっていたのか判らないと思います。
もし善悪二元論でできた世界の中にいたままでこの件を「悪い」と捉えて考え始めてしまうと、頭の中に「善役のエゴ」と「悪役のエゴ」が現れて延々と不毛な論戦を繰り広げることになると思います。
善役と悪役に分かれてますけど、そもそもは一つの自分ないんです(・。・);

それって疲れるだけです(笑)

.
この善悪二元論の対処法を例えるなら河の向こう岸みたいな感じかな?
向こう側に行ったからって凄いわけでもなく偉いわけでもなく自慢になるものでもないです。
ただ「こっち側はもう飽きたから次は向こう側に行ってみたい」くらいの感じです。
(僕は少しだけ前進できたような気がしてます。)

.
それを越える時に鍵になるのは意識の拡張(≈心の発展)だし、その具体的な方法論になっているのが「自分を愛する」と「素の自分」です。
この二つを何度も書いてるのでもう飽きちゃってる人もいるかも知れませんね。 ごめんなさい。
僕はこれらの言葉を知ってから1年ほど経ちますけど、この二つの短い言葉が持つ難しさや多様性や多元性に未だに驚きを感じてます。
だから僕にとっては大好きな言葉だし大切な言葉です。

.

=== 心で考える ===
自分を愛しながら「素の自分」に向かって変化していくと、そのオマケとして沢山の新しい視点や感覚や能力や理解力の向上を副産物として手に入れていきます。
これらは僕にとっても素敵なオマケです。
「心で考える」というのもそんなオマケの一つです。
(ちなみにこのブログの記事は全てこの思考法に基づいた内容で書いてます。)

.
僕はこの思考法によって、それまでは解けなかったいろいろな疑問を大局的に捉えながら合理的に自分なりの理解が出来るようになりました。
もちろん科学的な基礎データを基にして論理的な思考だけで論を構築するものではないので、大多数の人と客観性や再現性によって合意を得るようなものではないです。
ただ、自分に降りかかった出来事に対して全体像がどんな構造をしていてどんなメカニズムによって稼動しているかを大局的に俯瞰して分析することができるようになります。

とりあえず僕はこの思考法を使って自分の人生が楽になったし、それまでは思い付かなかった結論や気づけなかった選択肢や可能性があることを発見できたのでみなさんに紹介しておきます。
ただ、自分の感性を基にしているのでここから出てきた結論はあくまで自分専用であることは了承してね。

.
--- 脳みそさんと心さん(理屈と感覚) ---

内観や瞑想をしだしてから最初に発見した事は、自分の頭の中が既に過ぎ去ってしまっている沢山の過去の出来事にいつまでも文句を言ったり自分の正当性を主張する声で溢れかえっていたことでした。
それは今になって思い返すと狂乱としか言えないくらいに騒然とした状態だったんです。

そこでは「だって○○が正しい!」とか「◇◇であるべきだ!」とか「本当は△△なのに!!!」とかの理屈でいつまでも終わらない騒動が続いていました。
頭の中が慢性的にこの状態になっている事にも気づかずに新たに物事を捉えたり考えたり発展したりしようとしても、狂乱したそれらのノイズが阻害要因となって新たな思考や発想を妨害してしまいます。
つまり以前の僕は自分で自分の能力をわざわざ低下させていたわけです。

逆に言えば、それを掃除して整理して統合していくと自分本来の能力がスムーズに発揮されるようになって結果的に自分の能力が上がったり埋没していた思い掛けない才能が現れたりします。
例えば以前の僕は文章を書くのがとても下手でした。なのに僕はこのブログのコメント欄で産まれて初めて書いた文章を褒めてもらえました。
誰よりもそれに驚いているのは僕自身です(・。・);

自分の内面を愛で自然な感じに統合していくその初期の段階で僕はそれまで無視してきた自分の心に誠実になりはじめ、心が発信する「感じ」に気をつかうようになりました。
最初は「いい感じ」か「嫌な感じ」の二つだけだったんです。

しばらくすると「あれ? 心が運動してる???」みたいな感覚を覚えました。
この感覚は本当に不思議でした。だって動いてるんですもん(・x・)!???・・・

その後はその心の運動をどんどん自由にしてあげて、時には大声を張り上げる脳みそさんの声をなだめながら脳みそさんに心さんの想いをなるべく誠実に反映してもらえるように心がけていく様になりました。
言い換えればそれまでに出来上がっていた自分の無数の信念に、絶対的な正当性を主張することよりも総合的に物事を感じ取る心の想いを考慮してもらうことに慣れてもらいながら、より心の感覚に馴染むもへと更新してもらうことで心と脳みそが調和した状態になることを優しく根気よく試みるようになりました。

.
自分を愛することや素の自分を探求している人は気づいていると思います。自分を不自由な状態にしている殆どの原因は社会ではなくて頭の中に張り巡らされた旧来の信念に無自覚に従属している自分自身なんです。
本来の自分の感性や感覚などの自分本来の価値よりも現代社会の理屈を無批判に鵜呑みにして出来上がった他律的な信念に盲目的に従っている自分自身なんです。
気づいてしまうとその信念の多くは「思い込み」や「勘違い」としか言いようのないものが大半でした。
(とりあえず僕はそんな感じだったな・・・)

「社会の理屈に合わせた信念に従う論理的な脳みそさん」が「本来の自分の感性や感覚などの自分本来の価値を秘めた心さん」を押さえ込んで支配している以前の自分の姿に、僕は現代社会の在り様と同じ構図を見ました。
「脳みその論理性は優れている。心の感性は突発的に何をしでかすかわからない愚かなものだ。だから脳みその論理に従え!」みたいな感じです。

.
最初の原型になっている発想が互いの違いに優劣をつけて支配関係を構築していたら、それを基に拡張された思考が「互いの違いを認め合って調和する」なんて段階に到達するわけないと思います。
物事の違いに優劣をつけて善と悪のレッテルを貼っていく思考を先鋭化させても平等と調和のワンネス感覚なんて出てくるわけないような気がします。

せいぜい劣った方を優れた方に同化しようという発想くらいです。または劣った方を支配するとか制圧するとか...
そうでなければモデルケースを設定して正しい人間の振る舞いを規格化するか...
他に方法があるとしたら規則を設けて、状況に合わせて規則をどんどん細分化していくくらいだと思います。
物事に優劣をつけてそれに従うことが原型になったものの先に何があるんでしょうね?

.
蛇足ですけど、僕が前回の記事で宗教団体に対して警鐘を鳴らした核心もここにあります。
宗教団体は真理の言葉や素敵な言葉を使って信者を募ります。
そしてその後に自分とは全く共通性が無くて自分とは隔絶された自分より上位に位置するものとして信仰対象を崇拝するように勧めます。

僕は自分自身を敬愛できない人がいくら作法にのっとって自分を卑下して信仰対象を崇拝しても神や仏を本心から敬愛できる訳がないと思ってます。
それどころか自分を卑下して崇拝してくる相手を喜ぶなんて悪魔さんか従属意識に強く傾倒した人間くらいだと思ってます。
僕には愛を説く神や仏が敬愛や信頼ではなく崇拝という行為で主従関係を築こうとする相手を喜ぶなんて思えないです。
もし信仰対象がれっきとした神や仏なのに誰かが崇拝することを勧めてくるようなら、その誰かがいったい何者なのかを見極めたほうがいいと思います。

神や仏と接するその時に自分が示せる誠実で精一杯の敬愛が少ししか示せない状態だったとしても、それを非難してくるような存在ならそれはそもそも神でも仏でもないと思います。
僕はそんな小さな存在が神や仏をやれるわけないと思ってます。

.
そうそう、これはきちんと主張しておきますが僕は宗教をやっている人を批判しているのではありません。宗教の中にすら世俗の論理を持ち込んで平然としていることに警鐘を鳴らしてます。
僕の近所にキリスト教系の信者さんがいて、その人は自分の敷地に小さな集会場を建てて活動しているような敬虔な信者さんです。
その人と話をしたとき、その人が「私は自分の中に神様が居てくれていると思ってます」と言っていました。
僕はそれが嬉しかったです。思わずオーバーリアクションにならない様ににっこりしながら心の中で「ですよね♪」と返事しちゃいました(笑)
その人ともちゃんと仲良くやってます。いたずらに宗教をやっている人や宗教そのものを批判するようなことはしません。

延々と持論を語り続けちゃいますけど、僕は神と呼ばれたものも仏と呼ばれたものも仏法(Buddhist truth)と呼ばれたものも、そもそもは形もなく言葉でもないと思ってます。
その源になったものを感じ取った人達がそれぞれの言葉で他の人に伝えてたんだと思ってます。
たぶん宗教の根幹になるものは各種宗教が語る言葉や信仰対象物そのものではなくて、その言葉や信仰対象から受ける感覚を手掛かりにしながら神聖な何かを感じてるその人本人です。
価値があるのはその教義でもなくその信仰対象でもなく、神聖さを求めてそれを選んだその人そのものだと思ってます。
そんな人にこそ神聖さを求める自分自身を素直に尊重してもらいたいと願っています。

神聖な何かを感じたときに、感じた事を言語化するか感覚のまま直感として受け入れるか、それとも「気づき」として受け取るかは個人それぞれの「好み」ということでいいと思います。
当然「そんなもの感じたくない」と言う方は自分のその好みを尊重して感じなくてもいいと思います。
肝心なのはその人そのものだし、その人の本心が主体的に「望んでいること」です。主体は常に自分です。その望みが何であってもいいと思います。
(だからと言って他の人に迷惑は掛けないでねw)

.
ごめんなさい、脱線しちゃいましたね。本題を書きます(笑)
僕が言っている「心で考える」という内容は、人によっては「イメージで考える」と表現した方が伝わりやすいかもしれません。
または好きな人に正直な想いを伝えようとして言葉を選んでる時の感じとか・・・

-------------------------------------------------------------
他にも連想しやすいような言葉を書いてみます。

・いくつかの感覚や直感を組み合わせて全体的につじつまが合ってバランスがいい感じを模索する

・心の中で物事を俯瞰するように眺めて立体的に考える

・心の感覚を主体にして想いを言葉に置き換える

・自由な心で腑に落ちたことを感じたままに言葉にする

「何かがおかしい・・・」と感じ取ったときのそれ!

・空間で考える
etc...

こんなことを心の感覚を主体にしてやります
-------------------------------------------------------------

参考までに僕がよくやる方法を書いておきます。
みなさんそれぞれに自分流の方法を模索してみてください。

僕がこの「心で考える」を実行する時はほとんどの場合、幾つかの「こんな感じ」を粘土のように自由に動くもやもやとした雲のイメージに置き換えて、それをいろいろと動かしていきます。
「こんな感じでどうだろう? あれ??? 何かがおかしい。 こうかな?」みたいな感じです。
やってるうちに直感的に「こんな感じだな」というところに落ち着きます。
そして時には途中で論理能力を補助的に使って感じている事の組み合わせや整合性をチェックしたりしながらやってます。
その内容が自分なりに納得できる内容になった段階で脳みそさんの論理能力と言語能力と知識を使って選定した言葉がしっくりくるかどうかをチェックしながら言語化していきます。
いわば感覚を主軸にして感覚と論理のコンビネーションプレイをしているわけます。

両者の関係をもう少し詳しく記述すると、心がマスタープランを描き 論理がディテールデザインを担当するような関係です。
この両者は互いを補完しながら互いを成立させる関係であって対立するものではありません。

マスタープランはディテールを生かし、ディテールデザインはマスタープランを具体的に築き上げます。
いわば相互協力の関係を保って自然な一体性のある思考を具体的に構築していきます。

.
もしかしたら「感覚」を重要視する話を聞くとついつい反射的に「自然科学やテクノロジーと相反するもの」という印象を持つ人がいるかも知れません。
しかし僕はそうとは思わないです。

逆に少しでも心が持つきめの細かい多角的な思考に気づき始めると論理的思考の短所が気になり始めます。
論理的思考と聞くとなんとなく素晴らしいもののような印象を持ってしまいますが、実際には他の人には見せることが出来ない自分の思考内容をなるべく誤解や誤認が生じないように伝えるために発達した表現方法の一種です。いわば自分の思考を相手の中でその内容を再現できるようにする為の洗練された「作法」です。
それには確かに論理が矛盾を排除するメカニズムが働きますが、その人の能力範囲内でしか思考されないという意味で決して万能とはいえません。

論理的思考は原因と結果の因果関係を法則として扱い、対象の事象が持つさまざまな特性を分析してその中から特定のテーマに合う一部の特性のみを思考の素材にして素材同士を因果関係で組み上げていくことで思考を構築していきます。
この時、論理的矛盾が発生しないように緻密に論理を組み上げたとしてもそもそもが特定のテーマに縛られた思考ですので考え方や物事の捉え方が一面的になり思考の視野が狭くなります。

心で考えた場合、思考する対象を感じたままにオリジナルに近い状態でさまざまな特性を取り扱って組み合わさり具合を感覚で眺めるように捉えていきますので、その全体像や内部のメカニズムがどうなっているかを描き出してどう対処するかをテーマやジャンルに縛られずに大局的に思考しやすくなります。

文章にするとなんだか大袈裟な印象を与えてしまいそうですが、簡単に言ってしまえば物事を平面的に考えるのが論理的思考で立体的に考えるのが心の思考です。
たぶん「直感」のメカニズムに近い思考法ではなかろうかと推測しています。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------
例え話で説明するとこんな感じになります。

不動産屋さんでよく見る住宅の間取り図を思い浮かべてみてください。
不動産屋さんで間取り図だけを見てあれこれ考えて住んでもいいと思える物件を選んだとします。
不動産屋さんの事務所にいる時は間取り図を見ながら用意した幾つかの選定条件を基準にして一生懸命考えて頭の思考を尽くします。

候補を選んだ後に実際の物件を確認するためにその物件が建っている現地に案内してもらい、実物の空間の中に入ると感覚的な思考が自然に働き始めます。
窓から差し込む光の具合だとか天井の高さだとか壁紙の色合いだとか立地周辺の雰囲気だとか・・・
間取り図を見ていた時には考えもしなかった図面には記載できないさまざまな情報を自分の感性を基準にして総合的に取りまとめて考慮し始めます。

論理的思考と心の思考の違いは、この平面の間取り図を見ている時の思考と立体の現物を見ている時の思考の違いに似ています。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------

.
これは全くの推測でしかないのですけれど、僕が言う「心で考える」って別に特別な事でもなんでもなくて実はとっくの昔からやってる人はやってるのではないかと思います。

たとえば作曲する人とかは、たぶん一部であっても曲のフレーズやメロディーを唐突に思いついていると思います。現に音楽理論を全く知らない人でも作曲したりします。

世界でトップレベルの数学者が難問とされる数学的証明や新しい課題に取り組むとき、重要な仕事場になるのはペンを握り締めて机上の紙に向かう研究室ではなくてお気に入りの散歩道だそうです。

物理学者が論理を打ち立てるとき、先ずは観察から初めてその観察結果が何故そう振舞うのかを空想することが第一歩になるらしいです。

建築や製造業の分野でデザインをしている人もそうだと思います。多数の設計要件を一旦短い文章でコンセプトにまとめる時や、大雑把な形状や各種要素のレイアウトを考慮したうえでラフスケッチに描き出すのは論理的思考だけで出来るようなことではないと思います。もやもやした漠然としたイメージや閃いた思い付きを基にして論理的思考で整理しながら基本設計や方針を決めているんじゃないでしょうか。

学術論文や大学での研究レポートなどは論証の根拠となるデータや引用元を明確にすることが義務付けられていますが、関連データや引用元になりそうな学術書を山のように準備して積み上げてしまうと逆に論文なんて書けないんじゃないでしょうかね?

.
つまり人が新しい何かを創り出すとき、最初の基盤を司っているのは論理じゃなくて感覚の方だと僕は考えています。そもそも人が何かを創造する時は意識しないまま感覚と論理のコンビネーションで創り上げてるんだと思います。

どうも僕は「論理的思考」だとか「テクノロジー」といったものに対しても、逆説的に「感覚」というものに対してもいろいろな偏見や思い込みが隠れているような気がしてならないです。
ここで僕が紹介しているのは、感覚と論理の比重バランスを論理側から感覚側へスライドさせた場合の話をしています。

.
--- 長所と短所 ---

この思考法の最大のメリットは、一般社会の通念で出来上がった旧来の信念の影響をあまり受けずに大局的に物事を捉えたり考えたりできるところです。
つまり善悪二元論の制約から離れて自由な思考をしやすいです。
たぶん間違った見解を出してしまうこともあるでしょうけど、そもそも間違えない人間なんて今この時点で人間やってないので僕は間違ってもOKだと思ってます(笑)
なるべく精妙でバランスのいい結論を目指してやってますけど、反面のんきに感覚の世界を楽しんでたりもしてます。

デメリットとしては、論理だけを使って考えるような迅速さが苦手です。
即時の判断が必要な場合は、直感に従うなり脳みそさんの理屈を使うなりした方がいいです。
また、頭では問題視していても本心では気にしてないようなことは思考できません(笑)

それとその日の自分のコンディションによって調子が大きく左右されます。出来ない日はまったく出来ないです(・。・);
他にも静かで一人になれて長時間過ごしていられるタイミングと環境が必要になるのが難点と言えば難点です。
(僕自身も上手にこの思考法を使いこなせていないので、もっとこの思考法に慣れていくと徐々に改善していくとは思います・・・)

.

もしこの思考法に興味があったら自分自身の心の機能をのんびりゆっくり拡張しながら試してみてください。
もしかしたらあなたにとっても有益な結論を導き出してくれる助けになるかも知れません。
もしそれが出来なかったとしてもあまり気にする必要もないと思います。
すべてはあなたのペースとあなたのタイミングでいいと思います。

.

.

=== 気づいたことをちょっとだけ... ===
僕の感覚で自分自身や世の中の様子を見ていると、この数年でこっそり地味にいろいろな事が変わり始めてる気がしてます。

僕が感じる変化の一つがパターン的成功法の衰退です。
以前は「それはこうやれば上手く行く」と言われていたいくつもの定番の成功法がもう既に賞味期限切れを迎えて成果を期待できなくなっているような気がしてます。
この状況の中で人によっては新たな「上手く行く方法」や「こんな時は何をするのが正解か」が判らなくなって不安を感じている人もいるように見受けられます。

これは本当に無責任に個人的な予感だけで書いちゃいますけど、今後パターン的成功法は新旧問わず衰退し続けるんじゃないかと思います。
これまでの癖でついつい「皆が認める成功」を気に掛けてしまいますけど、だんだんとその意義も薄れていくような気がしてます。

だから形態を問わずに可能性の範囲を広げて「より上手に好みの生き方を楽しむ」みたいな感じが重要度を増していくんじゃないかと予想しています。
今後は「本心の望み」とか「自分の本当の好み」みたいなものが重視される世の中になっていくような気がしてます。

.
突然そんな生活を成立させることは難しいと思いますが、余裕がある時に気持ちの中だけでも「自分の本心からの素直な望み」を見定めておいてはいかがでしょうか。
もちろん、もしよかったらね。

.

.

※※※ 読者の皆様へ ※※※

今年はこれが最後の記事になります。
執筆をさぼりながらも1年間ブログを続けることが出来ました。
読者のみなさん ありがとうございました。
少し気が早いですけど、年末のご挨拶をここでさせて頂きます(笑)

.
みなさんどうぞ、より素敵な新年を!

.

今回も長文に最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう!

拍手[0回]

推理だけで悪魔さんの手口を語ってみる

こんにちわ!

8月ですね~
今年はことさら太陽さんの光が力強いです。
ほんとにもうフラフラしちゃうくらい...(笑)

みなさん、この夏、いかがお過ごしですか?

.
8月を迎えた記念に、このタイミングで悪魔さんの詐欺の手口を簡単にまとめておきたいと思いまして、今回もいつものように妄想全開で記事を書いていきます(笑)
(何の記念やねん?w)

この記事を読んでくださる読者の方に軽く楽しんで頂けましたら幸いです。
もしお時間がありましたら少々お付き合いお願いします。

.
=== (はじめに) ===
以前、僕がこの世界の在り方に疑いを持ち始めた頃に「悪魔さん達はいったいどうやって世界規模で人々を騙してるんだろう?」という素朴な疑問を持った時期がありました。
すぐに気付くのはメディアを使った情報工作や諜報機関を使った偽装工作などですけど、もっと深いところで何かがあるような気がしてしょうがなかったんです。

他にも政府や医療・教育・宗教・食料・金融・重大情報の隠蔽などの様々なチャンネルでの工作はあると思いますけど、その辺りは専門的に真実を追究しているサイトが沢山ありますのでここではそれらに触れずにおきます。
もしそちら方面に興味があるようでしたら別の情報サイトを探してみてください。

ここでは、もっと悪魔さん達の詐欺システムを原理的に推理した結果を記述していきます。

.
=== 推理に基づく悪魔さんの詐欺システム ===
僕は悪魔さん達が人間社会をコントロールしていると考えていますが、たぶん多くの普通の人達はそうは思っていないでしょう。
これって巧妙な詐欺師と被害者の関係によく似ていますね。
被害者を騙しているのに、当の本人には気付かれることなく騙し続ける詐欺師の手口です。

つまり逆に考えて推理すると、普通の人が「普通のこと」と考えている中にトリックがあると推定できるわけです。

その意味で、僕自身もこの記事を読んでくださっている読者の方も、自分自身が悪魔さんの手口を推理する上での貴重な体験者であり分析対象であると言えます。
これはある意味とても便利です。だって自分の人生を冷静に正直に分析すれば、詐欺のトリックを理解した上でその結果を今後の人生に活用できる訳ですからね。

.
この先に書き込む内容は、僕が自分で自分を不幸に追いやってしまった時の心理経過の分析と各種情報サイトの記事を参考にしながらそのメカニズムを推理したものです。
個人的な推理過程を書いても何の論証にもなりませんし、無駄に文章が長くなるだけなので分析結果だけを記します。

いつものように「そうだね」と感じたら内容を参考として受け取ってください。「そんなわけないよ」と感じたら笑って済ませちゃてください!
そしてくれぐれも鵜呑みにするようなことはしないで下さい。どうぞ貴方の識別力を活用してください。
自分が巡り合った情報は、自分が探しているものを探り当てるためのヒントでしかありません。
僕はそう思ってます。

.

--- 詐欺システムの原動力 ---
(a)分離感覚
(b)善悪二元論

.
誰にでも人生の中で孤独感にさいなまれてしまった経験があると思います。僕にもあります。
悪魔さんの詐欺システムは、そんな些細な個人レベルの感情を詐欺システムの原動力として利用するところから始まります。

あなたが孤独に落ち込んでいた時、「誰も自分の事をわかってくれない」と他者から切り離されてしまった「分離感覚」を感じていたと思います。
分離された孤独の中で「悪いのは自分じゃない!」みたいな想いが何度も駆け巡ってひたすらにその状況を善と悪で理解しようとしたと思います。

そうなってしまった出来事の経緯や善悪真偽は今は問題視せずに、心理経過として自分の中で起きた「分離感覚」と「善悪二元論」の両者が持つ関係性の方に注目してみてください。

①「分離感覚」を強く感じているたびに、なにかと「良いor悪い」(善悪二元論)で周囲を見て批判や判断を繰り返していたと思います。
②「良いor悪い」(善悪二元論)を基に批判や判断をやればやるほど、周囲に見えるものを「良い」と「悪い」の二つに分けて分離感覚に基づいた世界観を無自覚に構築してどんどん強固な観念にしていったと思います。
③ 強化された分離感覚で出来上がった世界観の中で他者と接するうちに、自分自身にも他者にも「良いor悪い」を繰り返し当てはめてその分離感覚の世界観を膨らませてしまったのではないでしょうか?
④そして何度も嫌な出来事を味わっていくうちに、いつの間にか「分離感覚」で生きる事を「普通のこと」として受け入れてしまう結果になったと思います。
⑤「分離感覚」を「普通のこと」として認識した後は、物事を善と悪にで区別することを当然のことと考え始めたと思います。

つまり「分離感覚」と「善悪二元論」の両者には相互をより強固に正当化していく相互作用があるわけです。

もしかしたら読者の中に「記述の説明どおりだとしても何故そんな事ををわざわざ解説するのか? その意図がわからない。」と疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。
ここで少し視点を変えて考察してみます。

.
誰でも大好きな人と幸せな時間を過ごしている最中には分離感覚が無いと思います。
また、お気に入りのアーティストのコンサートに行って、一体感と共に無心に充実した時間を過ごしている時なども分離感覚が無いと思います。
人は幸福感を得ているポジティブな心理状態にある時は分離感覚がありません。
(少なくとも大きく低減されます。)

.
逆に嫌な人と険悪な遣り取りをしなければならない時、そこでは分離感覚を強く意識すると思います。
また、不条理な理由で不当な扱いや孤立に追いやられた時なども分離感覚を強く感じることになると思います。
自分一人で罪悪感や劣等感に苦しんでいるときなども、そこには同じく分離感覚があると思います。
つまり人は不安や恐怖を感じるネガティブな心理状態にある時には分離感覚が強く現れます。

.
この比較から「分離感覚」がネガティブな心理状態になってしまった時の心の警告ブザーのような働きをしていることが伺えます。
僕はここで敢えてこんな問い掛けをしてみます。

人々の普通の暮らしの中で「分離感覚」が「普通のこと」になってしまっているのは何故なんでしょう?

.
--- 詐欺システムのフォーマット(オートメーション化) ---
(a)弱肉強食(競争原理の正当化)
(b)唯物論(物欲的価値観への思考誘導)
(c)お金(価値基準の単一化)

上記の三つは社会生活の中で当たり前すぎて、どれもそれを問題視した事がない方がほとんどだと思います。
そしてこれらは国籍や地域や文化圏を問わず地球規模の社会通念になっていると言えます。

.
(a)弱肉強食(競争原理の正当化)
学校の授業で「食物連鎖」について習った人は多いと思います。
僕が授業で習った時の要点としては「自然界では弱い生物は強い生物に捕食される関係にある。そのため弱い生物は数が多く、強い生物は数が少ない。」だったと記憶しています。
そんな説明を聞くとなんとなくそんな気がしてしまいますけど、ちょっと引っ掛かるものもあります。

「だったら弱い生物から順番に絶滅して行って最後は誰も居なくなっちゃうんじゃないの?」

だってそういうことですよね?(笑)

.
素直に考えると、地球全体の自然の在り方に即して「調和」とか「循環」をキーワードにして生態系の食物連鎖を説明するほうが教育として適切なように思えます。
なぜ「弱肉強食」を概念の核心に埋め込むような内容で比較的低学年の時に教えるんでしょう?
食物連鎖を「弱肉強食」という観点で生徒に教えるのって、自然の理を教えているというよりも人間社会の都合を教えてるだけでしかないように思えます。

弱肉強食の概念って、とどのつまり競争することを当然のこと教え込んで、結果的に勝者と敗者を多層的に生み出しつづけるシステムの基盤を作っているように思います。
そして人々にストレスや不満を蓄積させて「正義vs正義」の闘争を必然的に誘発させる元凶になっているような気がします。

.
(b)唯物論(物欲的価値観への思考誘導)
以前、高次元的存在からのメッセージサイトを見ていたときに『愛よりもテクノロジーが先行してしまった文明は必ず滅びる』というような一文を見た事があります。

僕にはこの言葉の信憑性を確かめることは出来ません。ただし、地球の現状を考えると「確かにそうなんだろうな」と思えてしまいます。
簡単な例として、人類は既に地球を破壊できるだけの核兵器を持ってます。核兵器削減交渉は継続的に進められているとしても問題の本質が核兵器の量とは思えません。
仮に今すぐ地球上から全ての核兵器を根絶できたとしても、現状を本質的に解決できるとも思えません。
兵器の側の問題なのではないと思うんです。
人間の側の問題です。

深刻に考え過ぎてしまうのはナンセンスですけど、人々が物質的な価値観ばかりに視線を向けてしまっていて、テクノロジーを操る人間側の精神性とテクノロジーの進歩度合いがアンバランスになっていることに無頓着なのは明らかです。
そして僕はこのアンバランスが悪魔さん達によって意図的に作り出されたものだと考えています。

何故なら人々の精神性が向上すると、それに伴って識別力や多くの視点で多角的に事象を捉える能力が向上してしまうからです。
そうなると、人々が新たな視点で物事を捉えて今までにないアプローチで問題を解決する能力を手に入れてしまいます。

悪魔さんは人々に「自分で考える能力が無い愚か者」であることを求めます。
人々の能力が上がってしまうと詐欺のカラクリに気付かれてしまうので、悪魔さん達の立場では人々がいつまでも物質的な価値観に固執して精神性の向上を目指さないように仕向ける必要があるわけです。

.
蛇足ですけど、もしここで精神性の向上と宗教を結び付けられた方がいらしたとしたら深くその発想内容を熟考することをお勧めします。
個人的な見解ですけど、僕は開祖の言葉や宗教者の言葉に共鳴する事はあっても宗教団体に対しては肯定的な見方をすることが出来ないです。

もし仮に高次元的存在からのメッセージを「教え」として採用しているような団体があったとしても、宗教団体が共通して使っているフォーマットに則したやり方でメッセージを運用しているとしたら、僕はそんな団体に何かを期待することなどしないでしょう。

ただし、だからと言って宗教を持っている個人を否定する気はありません。逆に特定の宗教を自ら選んだ方ならば、宗教を侵食した俗世の理屈を見抜いて突き破るくらいに追求して欲しいと願ってます。
勝手な意見をまた記述してしまいますけど、その時に問題になるのは「信仰する対象は何か」というよりも、「自分は何者か」と誠実に正直に自分を見ていく愛と勇気だと思います。
(※表現に誤解を招きやすい個所がありましたので「見抜いて」を追加しました。Sep. 9. 2017)

.
(c)お金(価値基準の単一化)
僕は今となっては「お金」が人間の文明の発展過程の中で自然発生したものとは思っていません。

その前提で人間社会の中で「お金」が果たしている効果を考えていきます。
お金の機能として最初に思い浮かぶのは物やサービスを受け取るときの「交換品」としての役割ですね。
この機能についても弊害はいろいろあると思われますが現時点ではそれほど大きな問題ではないと思うので詳述はしません。

別の問題点を明確化するために、ここでちょっと「お金」の本質は何なのかを考えてみてください。
普段目にする貨幣や紙幣は具体的な物体ですけど、それらは「お金の本質」ではないですよね。

この本質について自分でいろいろ考えて、最終的な自分の見解として、「お金の本質」とは「お金には価値があると全人類で信じ込んでいる大規模な思い込み」だと結論付けました。

--------------------------------------------------------------

この結論ってちょっと判りにくいと思うので、簡単な思考実験をしてみます。
自分を除く全人類が「この日からお金には一切の価値がないものとする」と取り決めて、とうとうその日がやってきたとします。

その日から自分がいくら「お金」で対価を支払おうとしても誰もそれを対価として認めなくなります。
自分が何を主張しても、その瞬間からお金ではない「何か」を相手に渡す必要に迫られることになります。

これを逆転させた場合も思考してみます。
自分を除く全人類が「お金には価値がある」と考えている環境の中で、自分一人だけが「お金なんかに価値は無いんだ!」と主張したとしても通用しません。お金の支払いを要求されます。

さらに自分が人類を包み込む地球さんになったつもりで、その視点から人間社会の「お金」という習慣を眺めてみます。
人類が「お金」というものを使っていようがなかろうが地球さんにとっては全くもってどうでもいいことでしかありません。

自然界にはそもそも土・水・空気などの物質的な要素たちや、その中で生命活動を営む各種生命体が互いが共存する「調和」や「循環」はあっても、単一的な交換価値を持つ「特定の何か」があるわけではありません。
単純に「お金」は人間の都合で使われているだけの人間社会の習慣です。

以上の思考実験は実現感の薄いナンセンスな内容ですけど、「お金の本質」が実体の無いものを有ると思い込んでいる人類規模の「思い込み」であることは結構な妥当性があると思ってます。

--------------------------------------------------------------

「お金が無いと困る」とか「お金は良いor悪い」とか「お金を利用すべき数々の有益性」とかはここでは問題視せずに、この状況を別の側面から眺めてみます。
日々の生活に立ち返って考えると、お金を持ってないと自分が生存することすら危うくなります。この事情は誰でも同じです。
だからお金を持っていることが幸福であることの重要な要件にもなっている訳ですね。
そしてこのお金を保有することの重要性は、地球全体の規模で人類共通の当たり前になってます。

この状況を今度は悪魔さんの立場で眺めてみてください。
なんと都合のいい状況なんでしょう!

「お金」はそもそも思い込みでしかなのだから、人々がすんなり納得する理由さえ用意できれば増やすことも減らすことも出来ます。
そして生活する為の人類共通の必需品となっている「お金」は、お金の流れを操る悪魔さん達の立場から見れば、気づかれずに人々の行動を遠隔操作するのに好都合なコントロールハンドルとしても有効に機能するわけです。

.
●(a)~(c)の価値観を組み込こまれた社会構造の中で何が起きているかを単純化して考察します。
まず人々が分離感覚と善悪二元論に固執した心理状態であることを念頭においてください。
分離感覚が心理の根底にある時、基本的に他人を信じ切ることが出来なくなり、自分は損をしないように警戒する心理が働きます。

弱肉強食をベースにした人々が営む社会では常に競争することを求め・求められ、必然的に争い事が起きかねない緊張状態が日常生活レベルから国家間の関係まで各階層に構築されています。
この不安定な環境の中で悪魔さんが作為的に「お金」の流れを操り、業界レベル・世界的な地域レベル・国家レベル・国際的な金融や株式レベルでお金の過不足を作り出すと、それに連動して物品の動きも過不足が起こり、人々の心理は自動的に更に不安定化してその状態を反映した行動を起こします。
人々は漠然とした不安感や恐怖感が慢性的に心理に焼き付けられ、その結果、人々は落ち着かない心理状態のまま近視眼的で安易な善悪判断による問題解決策ばかりに目を奪われ行動する状況を継続していきます。

時に悪魔さん達は大小問わず人々を戦争へ誘導する演出を行い、不安定な心理状態の人々は不安定さを増しながらただ「正義」を妄信し殺し合いの状況へと駆り立てられます。
歪んだ心理状態は歪んだ社会通念を作り出し、その歪みを正当化しながらまた新たにその歪みを人々の心理へ焼き付けていきます。

この環境を作り出しているメインの原動力は、実は普通の人々なのだろうと思います。
悪魔さん達は普通の人々の不安定な心理状態を維持する為に、時には不安を煽り時には安楽感を演出しているように思えます。

その時に使う手法は各種のチャンネルから発信される真実に嘘を混ぜた偽情報や暗に誤解を誘う偏向情報、重要な出来事から人々の視線を逸らす為のおとり情報などの「嘘」です。
もう一つの手法は具体的に戦争やテロや金融などの物理次元の危機を演出して、人々の不安定な心理を動揺させて破壊的な事態を引き起こさせようとする「ハッタリ」だと思います。

.
ここで是非注意してほしい事があります。
人々の心理を不安定にさせている要因は、その殆どが日常の生活で繰り広げられている人々の普通の行動の中にあります。
つまり、互いに互いの心理を不安定にさせるオートメーション機能が稼動する社会構造になっていると思われます。
その意味でこの状態を解消する重要なキーを持っているのは、実は僕ら一人ひとりの普通の人々です。
僕らの思考です。
僕らの意識です。

僕はそう思います。

あくまでも個人的な見解ですけどね♪

.
--- 永遠の思考迷路 ---
僕らは普通の感覚として「善」と「悪」が選択肢として現れた場合は常に「善」を選択します。

ところで僕らは何を基準にして善悪を判断しているんでしょうね?

もっと言えば、物事に善悪判断を下して対処すれば問題が解決するという考え方って、本当にそのまま使い続けてもいいんでしょうかね?
そもそも何故「善」と「悪」がまったく別物であるかのように感じるんでしょうね?

.
既に記述したように不安感や恐怖を払拭しきれない状況の中で「善」を語り「正義」を信じて行動しても実際には効力が薄く近視眼的な解決策しか思いつかないと思います。
そもそも善悪の基準になっている感覚が、分離意識から始まり弱肉強食の理論を基にしたものがバージョンを変えながら複雑怪奇に変形したものに過ぎないというのが実情だと思います。
この古いフォーマットの中に居続ける限り、善をつなぎ続けて独善的な闘争を繰り広げた挙句に次の争い事を生み出す結果しか出てきません。

客観的な善を求めると、法律などの公共ルールの策定に頼るしかなくなり、それがどんどんエスカレートすると最終的には法律が普通の生活を脅かしかねないほどの不自由さを要求してくる事態しか招きません。
それはそれで悪魔さん達にとって好都合なコントロールハンドルになっていきます。
だってもう奇妙な感じがする法律って出来始めてますもん。

.
善悪二元論に頼る思考は、それ自体が自分で自分を縛るただの思考迷路でしかないと思います。
そこから抜け出さない限り永遠に出口のないただの思考迷路です。
僕はそう思います。

.
=== 意識のステップアップ ===
ここまで読んでくれた方に感謝します。
ありがとうございます。

.
僕は人類文明が今このタイミングで新しい段階にステップアップしている最中だと考えています。
人類文明が次の段階にシフトする時期が来ていると感じています。

その意味でもう善悪二元論と分離意識の枠を飛び越えた新しい意識へステップアップする時期なんだと思っています。

ここまで散々悪魔さん達を悪者扱いしてきた僕なんですけど、たぶん彼らは彼らで僕らには理解できない理屈で彼らなりの「正しいこと」をやってきたんだと推理してます。
人々を殺し合いに追いやっても、それは彼らの「正義感」が根拠になってるんだろうと思われます。僕らからしたら常軌を逸してますけどね。

逆に考えれば、今僕らが普通に使っている「正義」と言う言葉も「善」という概念も、それらの多くがすごくいい加減であやふやなものなんだろうと思います。
あてにすべきものではないと思います。

.
もう、いつまでも彼ら悪魔さんに付き合ってあげる筋合いなんか僕らにはないです。
悪魔さん達にはとっととご退陣いただいて、気づいた人から順次それぞれのペースで次のステップへ進んで行けばいいと思います。

人類文明は既にいい年頃になりました。
もう人類に悪魔さん達は必要ないです。

.
さて課題になるのは
「善悪二元論や分離意識をどうやって飛び越えたらいいの?」
という素朴な疑問になりますよね。

僕自身もなんとなく判ったような判ってないようなあやふやな状態なので、きちんとした事は何も伝えられないのですけど、読者への提案として少しだけ書いておきます。
気に入ったものがあれば参考にしてみてください。

きっとこれから重要になるのは、統合していく「愛」と真実を見据える「勇気」です。
濃密で重圧な「重さ」から、広くて柔らかい「軽さ」への変容です。
たぶん間違いなく。

.
--- 落ち着く ---
多くの方が「落ち着くってなによそれ?」って疑問に思うでしょうけど、経験談としてお話しすると僕自身の初期の段階では頭と心がそれぞれバラバラになってしまっていて、特に頭の中では騒々しくいろんな屁理屈がずっと飛び交い続けていました。
自分の内面がそんな状態だったことすら最初は気づいていませんでした。

ですので、まずは愛と勇気をもって自分を内観したり瞑想するのがいいと思います。
内観や瞑想を難しく考えて形式ばったスタイルで捉える必要はありません。
お気に入りの場所でリラックスできる姿勢で好きなようにやればいいと思います。

ネットで検索するといろいろなやり方やコツが出てますので、気になる方は調べてお好みの方法を試してみてください。

.
愛と勇気で自分の内側を統合していくと、それだけでいろいろと思わぬ効果が現れます。

.
--- 価値の軸を自分の中心にすえる ---
これは以前にお伝えした「素の自分で生きる」という言い回しと同じ内容を指しています。

分離感覚が強く作用している場合は、たぶん自分の外側に価値の軸を置いている方が多くいらっしゃると思います。
例えば、「信頼する人や偉い人が○○と言ったから自分も○○が正しいと思っている」みたいな感覚でいるならば、それは価値の軸を自分の外に置いています。
他にも「これは正しい教えなのだからこの教えの通りにやるべきだ!」という感覚も自分の外側に価値の軸を置いています。

その意味で、僕が綴る文章の内容を信頼してくださる方であっても、もし仮に盲目的に信じようとしている方がいらっしゃったとしたらそれはとても良くないです。
だから僕はこのブログを読んでくれている人に、僕の文章の全てを参考として読んで欲しいと願ってます。
僕は世界に溢れている全ての情報を、自分にとってはただのヒントでしかないと思っています。
見つけた情報の何を採用して何を切り捨てて、採用した情報をどう解釈してどう発展させるかの全てを自分の感性に沿うようにやってください。

自分の真実は自分の内側にしかないです。ただ自分の内側にあるものが何なのかが明確に判らないから外側にあるヒントを活用して自分の真実を明瞭にしていくような感じです。
言葉を変えると、自分の本来の好みを探求しながらオリジナルの人生を歩む感じがいいと思います。

だから僕は心が共鳴することをとても重要なサインだと思ってます。
主体は常に自分です。

.
--- 覚悟を決める ---
自分が自分であることの責任を自分が負うことに覚悟を決めるという意味です。
言葉を変えれば、自分には自由意志があり、その行使に伴う結果は全て自分が受け取るという覚悟です。

.
--- 人生はその人だけのオリジナル ---
古い人間社会の感覚では、「正しいこと」は万人に共通の正しいことなのだから判ってない人には何が何でも理解させなければならないというのが普通だと思います。
この考え方を思い切って捨てちゃって下さい。

だから新しい感覚へ目覚めていく道のりも重要になる事柄も修得して行く順番もタイミングも全部その人それぞれです。
そして自分の人生も今ここにしかないオリジナルです。たとえ自分の道のりによく似ている前例の人がいても厳密にはどこかが違っているはずです。
自分にしっくりくるヒントを探してください。

たとえ善意であっても特定の相手を無理やりなんとかしようとするのはとても危険です。
これを無理にやるとただの精神的な暴力になります。
あなたが良いと思う何かを誰かに提案したりお勧めしたりしたとしても最終的な決定権はその人にあります。

自分にオリジナルの人生があるように誰にでもオリジナルの人生があります。
そのことをきちんと認め合い尊重しあいましょう。
その上で自分を侵害してくるような相手には、遠慮なく「No!」を表明しちゃいましょう。

.
--- ガイドさん ---
僕には見えない世界を見る能力が無いので確定的に断言は出来ないのですが、たぶん全ての人にその人の人生をサポートしてくれている見えないガイドさん達が傍に居てくれていると思います。
気が向いたら話しかけてみるのもいいかもです。
なんらかのサインで返事を返してくれるかも知れません。

今のタイミングで知ると丁度いい情報とかを、なんとなく開いたサイトや誰かの言葉などを通して教えてくれることがあるので軽く感覚を敏感にしておくといいと思います。

.
=== 動機の基盤 ===
人が望みを持つときや行動を起こすときには必ず何らかの動機があります。
そして自分のさまざまな動機を支えている基盤を変えていくことが大きな意味を持ってくると思います。

端的に言葉にすると、これまで不安や恐怖を基盤にしていた自分から愛を基盤に据えた自分に変容していくという事です。

これは言葉で言うほど簡単な事ではないのですけど、出来始めるといろいろな事が楽になったりいろいろな気づきや発見をしていくようになります。
これは自分が「いい人になる」とか「立派な人になる」とか「優れた人になる」というようなことではありません。
単純に自分がより本来の自分になっていくという事です。大袈裟な意味はありません。ただそれだけです。

.
自分の基盤になっているものが恐怖から愛へと変容していくと、それに伴って「分離感覚」や「善悪二元論」は自然に薄れていきます。
無理に「分離感覚」や「善悪二元論」を否定したり、なんとかやっつけてしまおうとする必要は無いと思います。
自分が愛に基づいた生き方を望めば、ガイドさんたちがひっそりとサポートをしてくれると思います。

焦る必要はないので自分を取り巻く環境と自分のペースで無理のないようにどうぞ。

.
この素敵な時期にみなさんと巡りあえたたことに感謝します。

.

長文に最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう!

拍手[1回]