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こんにちわ! こうしてご覧いただけるご縁に感謝します。 気になること・なんとなく思いついた妄想などを気ままに描いていきます。 もし気になる部分がありましたら受け取ってください。 お気に召さないようでしたら「たわ言」と笑っていただければ幸いです!
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こんにちわ!
ふぅ~ 6月になりましたねー
西暦2017年の前半終了間近のこの時期、みなさんいかがお過ごしですか?
今回は自分でも無謀と思いつつも「ワンネス」(Oneness)について文字でそれを描いてみたいと思います。
この言葉、簡単に言ってしまうと『全ては一つ』って事なんですけど、この言葉が指し示してるそのものってやたらとデカイですよね。
そしてそれに名前を付けるために言葉を使って表記はできても、決して言葉特有の性質である「全ての中からある特有の特徴を限定的に切り出して概念を特定する」という機能では「ワンネス」そのものを表現するのは不可能ですね。
だって「ワンネス」自体が「全て」そのものですもん。(そういうことだと思います。 多分...)
これを文字で描こうとする今回の試みの無謀さは、例えて言えば「氷の彫刻で氷そのものを表現してみたい!」くらいに無謀です(笑)
もう訳わかんないですねw
とりあえずやってみたかったので書いてみます><w
ちなみにここで書く内容は自分の「そんな気がする」とか「こんな感じだと思う」とか「夢で見た」とか「気になる文章を見つけた」とかの感覚の断片を有機的に統合したものですのです。
ですからすごくいい加減なものだと思います。お詳しい方からするといろいろと不具合を指摘したくなるかも知れません。
どうかそんな時は、空に浮かぶやわらかい雲みたいな心で温かく眺めてやってください(笑)
「今この筆者はこんな感じに受け取ってるんだな~」くらいでねw
でもきっと、いろんな箇所で皆さんそれぞれが持っている「ワンネス」へのイメージと食い違う箇所があったとしても、この点だけは誰とでも共有してもらえると思います。
『 ワンネスは理屈じゃなくて感覚! 』
この点だけは間違いがないと思います。
=== 「ワンネス」の概念イメージ ===
これまで物質文明に依存してきて「目に見えるものこそ現実!」としてきた私達にとって「ワンネス」はちょっと理解しづらいものだと思います。
今現在の普通の感覚だと「私は私! 貴方は貴方! 別々でしょ!!!」っていう分離感覚が全ての認識の基本になってる訳ですけど、ワンネス感覚に気づくとそれが一変します。
「私は私。 貴方は貴方。 私は貴方で貴方は私。ここにこの時、共に居ますよね~」みたいな感じです。
ここで『なんでやねん?』と思われた方。
なんででしょうね(笑)
不思議な感覚ですね。
『そんな訳あるかいなっ!』って思われた方。
僕は個人的に、そんな不可思議な感覚が論理的思考の外側に実在していてもいいと思うんです。
なぜなら僕らが、これまでの僕ら自身が偏った狭い視野の中で生きて来たのだから...
脳みそが事象を解析して解釈する理屈の世界に意識を留まらせていると、この感覚は「まったく理解不能」であるばかりか「あり得ない」または「あってはならない」という解釈しか出てきませんね。
ここではちょっと脳みそさんにはリラックスしてもらって、心の中でたくさんの波がゆらゆらと行きかっている海の様子をイメージしてみてください。
そう! あなたが空に浮かぶ雲になって海の表情を眺めてるみたいな感じでね♪
海面には形は良く似ているけれど確かにそれぞれが違う個別の波がたくさん存在していますね。
そこにある波の中の一つを自分だと思ってみてください。
そしてその横にある波を隣に居る人だと思ってみてください。
そこに在る「自分の波」と「隣の人の波」って確かに別々の波です。
波を「海水が盛り上がった個別の形状」と認識した時は「自分」と「隣の人」は明らかに別々です。
同じであるわけがありません。
ではでは、少しだけ着眼点をずらしてみて下さい。
そしてその両者を区分する境界線を探してみてください。
境界線ははどこにありますか?
そうです。実はどこにも無いんです。
別々だったはずの両者がシームレスに連続的につながってます。
お互いの波は互いに影響し合い関連しあいながら繋がりあって共にその形状で存在しています。
今その瞬間に。
そしてさらにその繋がり合いを「自分の波」を中心にどんどん辿っていって視野を広げていってみてください。
すると今度は「自分の波」が海そのものになっていきます。
さらに着目する中心点を「自分の波」から波たちの存在を自然に生み出している「海そのもの」へ移してみてください。
ゆらゆらと行きかうそれぞれの波たちがさっきまでとはまた違った意味を持ち始めます。
ワンネス感覚ってちょうどこんな感じだと思います。
「ワンネス」って、僕らが住んでるこの地球も、地球を内包している宇宙も、物質の形態をとっていない見えない世界もこの感じでシームレスに繋がって関連し合いながら成り立っている事をそのまま感じて認めるってことだと思うんです。
当然、僕ら人間同士も。 そして人間と自然も。 人間と動物も。 人間と植物も.....
言い換えたらワンネス感覚って単にこれまでと比べて「視点が変わる」とか「認識が変わる」、「ものの見方が変わる」ということだと思います。
つまりは「自分自身の感覚が新しく生まれ変わる」ということです。
『はぁ? なんだよ! そんなことかよ!!!』と思われた方。
僕は単純にそんな事だと思います(・。・)
たぶん...
たった感覚が変わるだけです。でもでもこの変化って、このワンネス感覚への変容って私達が暮らしているこの現象世界を変えていくと思いませんか?
だってこれまでと違って、もう分断しあって対立しあって争いあう理由がなくなりますもん。
そしてこれは決して今までのように善悪判断で「良い」or「悪い」とか「メリット」or「デメリット」で考えるものでも判断するものでもありません。
ただの感覚的理解です。
「素敵」と感じたならそれは素敵です。
ただそれだけです。
.
.
=== 物質としての自分・意識体としての自分 ===
とはいっても、「海」と「人間」は明らかに違うものですね。
海水は液体だし、人間は固体です。
海の波は本質的には実体のない波動の伝達だし、人間は物質でできた実体です。
今まで私たちは物質で出来ていること。すなわち目で見て、手で触って「確かにここに在る。誰が見ても確かに在る。」という意識を根拠に「存在」を語り、それを「現実」と呼んできました。
だからこそ物質であることを重要視して、それを主体に「存在」を語ってきました。そしてその認識の仕方に対しては何の疑問も持つことがなかった。それが実情だと思います。
ここで改めて想いを巡らせてみませんか?
『本当に物質であることが「存在すること」の主役なの?』
物質は確かに重要です。金属が無ければ文明は栄えなかっただろうし、地球の大地も固い物質だから僕らは立っていられるわけですしね。
空を見上げたときに見える太陽や月やきらめく星たちも物質です。毎日の食事も飲み物も物質です。
物質は目立つし理解しやすいし便利に利用できるし、僕達の生活は数々の物質に支えられて成り立ってます。
この忙しい毎日の中で生きていると、ついつい物質だけがこの世界に存在しているように思えてしまいます。
僕はそんな自分の認識力にちょっと疑問を投げかけてみます。
「ところでその認識って本当に真実を捉えてるのですか?」
例えば、僕にも貴方にも感情があります。心があります。感性があります。そして魂があります。
それらは誰にでもあります。そしてどれ一つとして物質ではない。
今この時期だからこそ、改めてこの不思議さに着目してみませんか?
どちらかと言えば唯物論に支配されてきた私たちの感覚に基づいて、これらの精神的な事柄を説明するとこんな感じになると思います。
「精神にまつわる意識や心や感情とは、千数百億個とも言われる膨大な数の脳細胞が電気信号を送受信する一連の活動の中で生成されるある種の幻想である。」
あなたの人生の中でも一度はこんな説明を受けたことがあるんじゃないでしょうか。
この手の説明に納得してしまうと、心や感情や感性や魂までもがなんとなく物質の支配下にある付随物のように思えてしまいますね。
ここで安易に納得せずにさらに疑問を追及してみます。
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○私:
「それらの膨大な数の脳細胞のその活動を生成しているものは何ですか?」
●唯物論:
「自然現象です。」
○私:
「じゃぁその現象を引き起こしてる自然そのものって何ですか?」
●唯物論:
「原因が結果を引き起こし、その結果が新たな原因となって次の結果を引き起こす連鎖的な物理現象です。」
○私:
「物理現象を人間が理解できる数字や記号や概念を使って人間が理解しやすい論理的説明に整理したものが科学ですよね。唯物論も科学の発展経過の中で仮定された一つの考え方であって一般的には普及はしましたが確定されたものではありません。ましてや科学が自然現象の全てを解明しているわけでもありません。そればかりか自然の何%を解明できたのかすら判らないのが実情です。そうではなくて自然そのものってなんですか? 目に見えない自然そのものってなんですか?」
●唯物論:「・・・」
------------------------------------------------------------------------------
とどのつまり僕らは自然そのものが何なのかを知らない。そして僕ら知らないという事実に目を瞑ったままあたかも人間は全てを知りえたような気になっている。
さらに人間の都合がこの世界の全てであるかのような集団錯覚の中で、人間同士でしか通用しない屁理屈をこねくり回しながら人間社会を取り繕って日々を生きている。自然と無関係な理屈の中で...
それが実情であり現実だと思うんです(・。・)
もう一回、改めて自分達を取り巻く環境を見つめ直してもいいんじゃないでしょうか。
自分が何かを勘違いしているかもしれないという前提でね。
ここでちょっと視点を変えますね。
僕達は一般的に「自分」と「隣の人」を区別するとき無意識的に物質的な観点から肉体をその基準にしてしまう習慣があります。
そして自分の心や魂や意識などの精神はその肉体の内側にあると考えるのが一般的だと思います。
でも僕は、今現在のこの時点においては、その一般的な認識形態を不適切な認識の仕方だと考えています。個人的にね。
そして既にそれらが逆転した状態で肉体と精神の関係を認識をしています。
ここで少しぶっ飛んだ自説を披露しちゃいますけど、僕は大きな「意識体としての自分」の中に小さな肉体の「物質としての自分」が在ると思ってます。
この認識の仕方は現時点ではかなりぶっ飛び過ぎてて一般的には了承しづらいと思うので、もしあなたがこの認識の仕方を不快に感じるようでしたら笑って済ましちゃってね(笑)
僕がこんな認識に至った経路は以前ブログ記事に書いた『自分を愛してください』という言葉でした。
今思い返せばこの言葉は、自分が捜し求め続けた数々の疑問や難問の解を次々と解き明かしていく魔法のマスターキーでした。
そしてその節目節目で物事を識別するときに使った尺度は『自分にとっての「素」の感覚にしっくりフィットするかどうか』でした。
その詳しい経緯は書かないほうがいいと思うので書きません。ただ不思議だったのは、自分が自分であることの明瞭度が上がるにつれて、いろんなヒントが僕にとっての最適な順番と最良のタイミングで顕れ続けたことでした。
それらは友人の何気ない一言だったり、世間話の中で自分が相手に向かって無意識に発した一言だったり、別件で検索したネット情報の一節だったり、ふとした弾みでひらめいたインスピレーションだったり.....
あ、ちょっと話が脱線しかかってますね。すいません(笑)
話を元に戻します。
僕の感覚的な理解を基にした自説を大雑把に紹介しておきます。
--- 自分とは何か ---
自分で「自分」を語るとき、「自分というキャラクターは一つ」という前提の基に自分の特徴や特性を羅列するのが一般的です。
でも今となっては僕はこの前提自体を不適切だと考えます。
自分で自分を語る「自分像」とは、いわば脳みそさんが作り出した表層的な自我意識の自己紹介に過ぎません。
意識には「顕在意識」と「潜在意識」があることは既に広く知られています。言ってみれば自分で自分を語るときの「自分像」は顕在意識が作り出した虚像の自分像であって、自分そのものの一側面に過ぎません。
そして顕在意識が虚像であり一側面である自分像を明確化するときにやりがちな方法は他者との比較です。
先に挙げた海の波のイメージを使って説明するなら、「自分の波」は「隣の人の波」と比較して大きいか小さいか。高いか低いか。美しいか不恰好か。明瞭な水色か泡だらけの不鮮明な色合いか....
確かにそれぞれを見れば見るほど個性的な特徴を持っているので、それぞれに違いがあることはまったくそのとおりですね。
ただ、ここで犯しやすい過ちは、その比較に身勝手な価値判断を組み込んで自分や他者の価値を断定してしまうことです。
大きいから素晴らしい。小さいからつまらない。高いから優れている。低いから劣っている。美しいから愛される。不恰好だから愛されない.....
素晴らしくあるためにはより大きくならなければならない。優れたものになるためにはより高くならなければならない。愛されるためにより美しくあらねばならない.....
さっきあなたが雲になって海の様子を眺めていた視点にもどって、そんなことでなんだかんだと争いあい、競い合っている波たちの様子を眺めて見てみてください。
どうでしょう?
そんなことどうでもいいことじゃないですか?(・。・)
そんなことより、個性豊かな波たちが織り成す海の表情を素晴らしいと感じませんか?
僕が言う「意識としての自分」と肉体としての小さな「物質としての自分」ってちょうどそんな感じです。
いわば、雲の視点で見ているあなたが「意識としての自分」。海の波をやっているあなたが肉体としての小さな「物質としての自分」です。
僕らにとって普段の生活を共にしてくれている表層的な意識は、日々のこまごました出来事を処理していく上で頼りになる大切な相棒です。
ただし、だからといって自分自身の全世界を「それだけ」に限定してしまうのはあまりにも不適切だと思うんです。
肉体の視点だけで物事を見てそれだけで判断すると、その視野の狭さのせいでいろいろな不都合を自覚することすらなく生成してしまうと思うんですよね。
なぜなら肉体側だけの視点で物事を判断するのって、せいぜい二元論にのっとった判断くらいしかできないですもん。
「どちらが優れてるか!」とかのね(笑)
僕にとって、肉体側の小さな「物質としての自分」とそれを内包する大きな「意識としての自分」は同時成立しています。
どちらが優れているわけでもないしどちらが劣っているわけでもないです。
単純に共に調和しながらそうあってくれていることがありがたいです。
いわば、身体に例えるなら脳みそさんと胃袋さんみたいなものですねw
「脳みそは考えるから優れている。胃袋は消化しかしないから劣っている。身体はより優れた脳みそに純化しなければならない!」なんて誰も考えませんよね(笑)
逆に「脳みそは考えるばかりで栄養を供給しない。だから身体はより胃袋に純化してもっと栄養を供給するほうが現実的だ!」とも考えないですよね(大笑)
そんなお馬鹿な屁理屈よりも両者ともにより健全に活動して、よりよく調和してくれることを願う方が大切ですもん(笑)
ちなみに「意識としての自分」を明瞭に知覚するのは困難です。しかも言葉を使いません。ぼんやりとした想いや感覚やイメージを通したコミュニケーションです。
その上、人間社会の都合から発生する欲望などにはあまり関心が無いようです。同じく人間社会の都合で起因した責任感などにもあまり関心が無いようです。
あるのはただ肉体側の自分が決めたことや望んだことをきちんと受け取る責任。自覚の有無を問わず自分に関わる全てのことを自分が望み、自分が決めているという事実に対する責任です。
例えば他人の言いなりになってその通りにすると決めたとしても、「言いなりになる」と決めた自分の決定が生み出した事象を自分自身が受け取ることへの自己責任です。
その他には、基本的に肉体側の「物質としての自分」が日々を生きる姿を楽しんで見守りながら、本心で望んだとおりの体験をすることを願ってくれてるような気がします。
もし「意識としての自分」からのメッセージに強引に名前をつけるとしたら「心の声」と表現するのが妥当なんだろうと思います。
ちがう表現をするなら「直感」とか「どうしてもこれが好き」とか「やりたくてしょうがない」とか「インスピレーション」とか、、、
ただし注意しないといけないのはこういうのって「妄想」や「気の迷い」などと紙一重なので、「素」の自分の明瞭度を普段から上げることに気遣いすることをお勧めします。
都合のいい身勝手な作り話などではなく、正直に自分への理解を深め受け止めていく「素」の自分に対する誠実な態度をお勧めします。
よく判らない時はその「判らないままの感触」を判らないそのままの感じで受け取る正直で誠実な態度です。
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--- 自分とワンネス ---
ここではワンネスを主題にして原稿を書きたいので「意識としての自分」に着目して話を進めます。
僕は上記の自分論を基に他者の在り方も相似形として認識していますので、他の方々にもそれぞれ大きな「意識としてのその人」が居るという感じで周囲を見ています。
人だけじゃないですけどね(笑)
その物事の見方において、それぞれの「意識」がシームレスに連続的につながり合って全体的な表情を織り成す海の中に居るような感じで自分と他者を捉えています。
ですから先述した海のイメージに例えたワンネスの風景は、僕と皆さんのそれぞれの大きな「意識としての自分」が織り成す風景と本質的に全く同じです。
そして肉体側の視点だけでワンネスを理解しようとするとただのおとぎ話にしか聞こえないのも、海の波を「別々の個別の形状」という視点だけでしか捉えなかった時に「同じであるわけがない!」としか言えないのと本質的に同じです。
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意識の持ち方を変えると世界がそれまでとは違った姿を顕しはじめます。
新しい姿をした世界観を感じ取ると自分自身の感覚が変わりはじめます。
以前からここにあった自然現象は何も変わりません。
ただ、人が「今」というこの瞬間に創り出す未来像が変わり始めます。
人間が創り出す未来の世界像が変わり始めます。
意識に即した感じに変わり始めます。
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=== この世界は何でできている? ===
上記の自説「自分論」をいま暮らしているこの地球や、地球を内包するこの三次元現象宇宙や、その外側にあるこの宇宙を内包する見知らぬ世界を全て含めた「この世界」(大いなる全て)に展開していくと、僕にとっては「世界は意識で出来ている」という結論に達します。
もちろん目に見えない意識の水平展開・内包関係の連続体なので、認知不可能な目に見えない「存在する方々」の存在も認めながらね。
ちなみに最近、僕は「世界は○○でできている」というフレーズを目にすることが多くなりました。
僕はこの原稿の中で「意識」という言葉を使っています。しかし、だからと言って僕が「意識」という言葉に固執している訳ではありません。
ある人は「世界は愛でできている」と表現しています。
ある人は「世界は波動でできている」と表現しています。
ある人は「世界はエネルギーでできている」と表現しています。
たぶんどれもそうなんだと思います。そしてどの表現もなんとか「それそのもの」を言葉で示そうとしているんだと思います。
感覚が受け取る情報量と比較して、言葉が抱えることができる情報の容量が小さすぎて言葉に収まり切らないんだと思います。
だから使われている言葉に拘るよりも、それぞれのフレーズが「それそのもの」を表現しようとして使った言葉に変換する以前の「それそのもの」に想いを向けることが大切なんだと思います。
どの表現がより的確かを問うのは馬鹿げています。
そんなことより自分がどう想いを巡らし、どう感じ取るか。
その時、自分ならどう表現するか。
どんな表現をすると自分に一番しっくりフィットするか。
自分の感覚を大切にして発展させていく方がはるかに重要です。
つまりこれは自分の「素」を探求する旅であると同時に、この世界の真相を探求する旅でもあるような気がします。
そして人生とは、その探求をしながらこの肉体を使って「それそのもの」を表現していく創作活動であるような気がします。
「寝る」とか「ぼんやりする」とかの一般常識の尺度で計れば価値が低いとされる様々な行為を含めてね(笑)
主題をこのトピックに戻すと、僕は「世界は意識で出来ている」と思っています。だから「この世界」の全体像は大きな意識体です。
この意味において「物質」だけが世界を創っているとは考えません。ましてや「物質」が「この世界」の主役であるとも考えていません。
物質は重要でですがこの世界を構成する一要素にすぎません。
ただの一要素です。
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=== ワンネス感覚が人類文明に大転換をもたらすかも??? ===
--- そうなったら素敵じゃね? ---
感覚って人間が思考したり物理的に行動したるする全ての活動を支える基盤ですよね。
だから感覚が変わると自然に志向する方向性や趣向が変わりはじめます。そして自分自身が変わりはじめます。
さらに不思議と出会う人や興味をいだく相手も変わっていきます。
僕はまだその感覚が弱々しくて不明瞭で雑音だらけの途切れ途切れのラジオ放送のような感じなんですけど、たくさんの人達と同じような感覚を共有していくともっといろんなことが鮮明に明瞭になっていくと思ってます。
そしていろんな人達と、それぞれの人々が自分の中から湧き上がってくる「好きなこと」や「やりたいこと」を実行する事の一つ一つがいつの間にか打ち合わせなしの自然で必然的な組み合わせの共同創作になっていくことを夢見てます。
いわば地球を大きなアトリエ兼作品展示場に見立てて、知ってる人・知らない人・会ったことがある人・会うことのない人に関わらず、そんな感覚を共有できる人達との共同創作をしていくことでまだ決まっていない「未来」という新しい共同作品を創っていくことを願ってます。
あたかも僕ら一人ひとりが、自分の感性に誠実な名も無き小さなアーティストであるかのように、主体的に自発的な自由意志と個性を発揮しながら生きることを通してね。
--- ちょっとカッコよく書きすぎた気もするので同じ想いを別の表現にした文章も載せておきますw ---
ぶっちゃけて言うと僕は自分自身がスッキリと納得のいく生き方をしたい。そしてそんな自分の生き方が生み出した何かが、何らかのカタチで誰かのためになってくれたらものごっつ嬉しい!
もしその願いが実ったら、自分がこの世に生まれたこの事実の上にそれ以上の喜びなんて有り得ないと思う。
そんな出来事が生まれた人すべてに起こり続けて、調和した日々の生活の中で、誰もが産まれたことの意味を謳歌する新しい地球へと現状が変容していくことを切に願ってます。
.
ちなみに僕は、今までみたいな誰が作ったのかもわからない得体の知れない人生の理想モデルを追いかけるのはもう飽きました。
他人が力説する正義感に振り回されることにももう懲りました。
もう、いつも何かに追い立てられている生活を幸福と呼ぶこの社会にうんざりしちゃいました(・。・);
はぁ お茶漬けたべたい...
.
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=== 最後に、もしよかったら ===
もしよかったら、最後にもう一度だけさっきの海を眺める雲のイメージの中で、雲になって大きな海を眺めてみてください。
今度はあなたの高度をどんどん上げていって、そのまま成層圏を飛び出して、宇宙に浮かぶ丸い地球さんを感じてみてください。
感じるままにそのままを...
もしよかったら...
もしよかったら...
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長文に最後までお付き合いくださいまして有難うございました。
またどこかでお会いしましょう!
こんにちわ!
最近ことさら社会の様子が慌しいですね。
皆さんも色々と忙しい日々をお過ごしだと思います。
貴重な時間をこのブログの訪問に使って下さいまして有難うございます!
テーマの都合上、少々理屈っぽくなってしまった個所もありますが、よろしければしばらくお付き合い下さい。
ちなみに皆さん
日々の社会生活を営む時に欠かせない「常識とは?」と聞かれたら何と答えますか?
そしてもし
あなたが「常識」として認識しているすべての内容を箇条書きにして紙に書き出すとしたら何ページくらいになりそうですか?
(イメージしてみてね♪)
今回はあまりにも身近にありすぎるせいで気に留めることもないのに、気になって深く考え始めると不思議なくらい判らなくなっていく「常識」について僕なりに考察してみたいと思います。
詳細な項目から考え始めるとどんどん複雑になって理解が困難になってしまうので、「常識」が持っている性質を整理していきますね。
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※筆者からのお願い:
この先に展開する考察内容に関しては善悪判断や優劣判断、有利・不利などの判断をせずに「考察内容に妥当性はあるか」又は「同意できるか出来ないか」だけの視点で眺めるように読んでください。
いわば地球外生命体になった気分で外側から人類の生態を観察する感覚で論の展開を見守ってください。
よろしくお願いします。
ではでは準備OK?
********************************************************
(1) ===[ 常識って誰のもの? ]===
「常識」と聞くと、ほとんどの人は条件反射的に「みんなで共有している価値観」みたいな漠然とした意識で捉えているのではないでしょうか。
もしこの仮定に妥当性があるならば、「常識って誰のもの?」という問いに対しては「常識はみんなのもの」という回答が出てきますね。
ただし、この回答を正解とすると不都合な事態が発生してしいます。
例えば「自国の常識が他国の常識とは限らない」という感じです。
これは少し考えると当たり前の事なのですが「常識」は意識することがないにしても地域的な制約を受けています。
ならば適用範囲を限定して自国の中であれば全ての自国民が「常識」を共有してると考えていいでしょうか?
たぶんこれも「No!」だと思うんです。
じゃあ地域をもっと限定して自分が住んでる地域だけで考えてみるとどうでしょう。
これもたぶん「No!」ですね。例えば自分の住居の隣に住んでる人が自分と同じ常識で生きている訳ではないですもんね。
さらに限定的にして家族だけならば「常識はみんなのもの」は成り立つのでしょうか?
今までの人生の中で繰り広げられて来たご自分の心情と家族とのやり取りでどんな出来事があったかを少し思い返してみてください。
その時は我慢したけれど、どうしても腑に落ちない出来事ってありませんでしたか?
冒頭にその内容をイメージしてもらった紙に書き出された「常識」って結局は誰のものなんでしょうね???
結局のところ、僕は「常識」って「その個人だけのもの」だと思うんです。
だけど多くの人達は「常識」を「みんなのもの」と勘違いしてる。
これが実情だと思うんです。
僕は人生の様々な場面で登場するいろんな問題の発生源がここに潜んでいる「勘違い」にあるように思えてならないんですよね。
例えば今までの人生を振り返ると誰でも一度くらいは『おまえは非常識だ!』みたいな事を言われたことってないですか?
僕は結構たくさん言われて来ました(笑)
その経験を冷静に振り返って、その意味を視点を変えて思い返すと
『おまえは非常識だ!』 = 逆説的に『みんなの常識に従え!』=実際には『俺の常識に従え!』
って事だったと思います。
(その人達は当然、無垢な善意で僕に注意してくれたのでその方々への感謝の気持ちはあります)
そして当然、僕にもかつて逆の立場で同じような事を他の人に言ってしまった経験があります。
「常識」と命名された個人の価値観をその人が「みんなのもの」と勘違いしてしまっている時、一方的に自分の価値観を他者に認めさせようとする暴力的な欲求が無自覚なまま生まれちゃうんですよね。
『こいつは常識を未だ知らない。だから俺が教えてやらなければならない!』みたいな善意から発動する迷惑な欲求です。
もしあなたが上記の私の考察に妥当性を感じて頂けるようでしたら、「常識」という漠然とした意識に潜んでいるこの「勘違い」に注目してみてください。
これって個々人によって発動力の強弱や表現方法の違いはあるとしても、「善意」を「暴力的な承認要求」に転換して「常識」を拡散していく全自動メカニズムとして個々人が稼動している人間社会の様子を観察することが出来ると思います。
(2) ===[「常識」をあるべき理想として捉えた時の性質 ]===
「常識」を今現在すでに持っている固定的な「みんなで共有している価値観」と仮定すると、そうであることを否定する奇妙な結果が出てきます。
では次に常識の前提を変えて違う視点で考察してみましょう。
「今は実現していないけれど将来的にそうなることが望ましい全人類が共有し尊重すべき理想的な価値観」としてみます。
言い換えれば、価値観のモデルケースとして捉え直して考察してみますね。
今現在、明確に言葉にすることは少ないとしても、こんなモデルケースが多くの人に認識されていると思います。
◆勉強して良い成績を修めて、良い上級学校に進学してそこでも良い成績を修めて、良い企業に就職して良い業績を積み重ねてスキルを磨き、社会の中で上位のポジションを得て、良い収入を得れば幸せに暮らせる。---(A)
どうでしょう? あなたの頭の中にもこのモデルケースが入ってませんか?
ちなみにこれって別の「常識」と相克していることにお気づきでしょうか?
◆個性を尊重し、多様性を認める社会を作らなければならない。---(B)
もしあなたが、街で一生懸命に個人経営の店舗を営む店主さんや、若い頃から熱心に技巧の習得に励んできた職人さんに(A)を力説したとしたらどうなるでしょう?
(※その様子を想像してみてください)
もしあなたが、企業の第一線で企画商品の販売促進を通して利益拡大の実現に励む人に(B)を力説したらどうなるでしょう?
(※その様子を想像してみてください)
上記した(A)以外にも「男らしさ」、「女らしさ」、「社会人らしさ」、などの「○○らしさ」で表される個性の均質化圧力は(B)と相克しますよね。
意識して探せば他にも相克する関係の事柄を「常識」の中から見つけることは難しいことではありません。
この相克する価値観の両方を自分が受け入れている状態で自分の思考にに何が起きているかを冷静に見つめていくと、どちらにも抵触しないように思考の範囲を狭めて自分の「信条体系」が論理破綻しないように自己防御している自分自身に気が付きます。そしてこの相克関係にある「常識」が何重にも絡まった状態で個人の「信条体系」が構築されている時、その人は何かを突き詰めて思考しようとすればするほど出口のない思考迷路に陥って行きます。
そして「視野の偏狭」や「識別力の低下」などの慢性的な思考力の低下を引き起こしてしまいます。
(3) ===[「選択の自由」という詐欺トーク ]===
(1)では「常識」が個人から個人へ拡散していく性質を記述しました。
(2)では「常識」が思考迷路となって個人の思考力を低下させる性質を記述しました。
この二つの性質が稼動している状態で人々の生活に何が起きるでしょう?
有名なセールストークに『A案とB案のどちらにしますか?』という商談相手に契約を促す営業トークがありますよね。
商談相手はA案とB案を比較して好みの選択をするので「これは自分が選択した」という満足感と購買に対する責任感を持つことになります。
けれど、どちらを選ぼうがセールスマンにとっては契約成立となって売り上げになるという商談術です。
これと同じことが人間社会の中でも起きてるんですよね。
例えば、政治の選挙において有権者は保守派政党とリベラル派政党の選択をする場面が多いと思います。
僕は個人的に、この世には人間の肉体を持った悪魔さん達が実在していて、彼らが人類を悪魔的な支配術で操り続けてきたと考えています。ですので以下はその認識を前提にして記述していきます。
もしあなたが「そんな事はあり得ない!!!」とお考えでしたら、以下の記述を「妄言」笑い飛ばしてください^^
選挙のときの保守派政党とリベラル派政党の両方が悪魔さん達の支配下にあると仮定して考えてます。
つまり主要各国の政府は既に悪魔さん達に憑依されており、表側の政府とは別に民衆にはその存在が見えないように工作された「影の政府」が存在しているという前提です。
選挙の結果が保守派政党であれリベラル派政党であれ、悪魔さん達にとってはどちらでも構わない状態です。そして有権者は選挙に参加した満足感と自分が一票を投じた責任感を持つことになります。
視野が偏狭になっている有権者は二党の選択にしか思考が及ばず、二者の後ろに隠れている悪魔さん達の存在には気づきません。また仮に選挙の最中に何か疑問を感じた人が居たとしも識別力が低下した状態だと、抱いた疑問の「何か」が何なのかを追求せずに「気のせい」や「現実がこうなんだから仕方がない」といった理由をつけてその疑問を終了させると思います。
結果的に悪魔さん達は思い通りに人類を操り続けます。
これも僕個人の推測ですけど今現在の世界の主要各国の中で悪魔さん達の影響を国家単位で排除してる国はロシアくらいじゃないかと思ってます。
こんな時に悪魔さん達が都合の悪い相手を潰す時によく使う手口が「正義vs悪」の構図をでっち上げる方法です。
各国の主要メディアを使って「正義」を作り上げ、都合の悪い方を「悪」に仕立て上げる手法です。
アメリカが長年ロシアを敵視して来た事や、西側陣営のメディア報道だけでは中東地域のISISが絡む情勢がさっぱり判らない事や、ウクライナのクリミア問題でやたらロシアを批判する報道ばかりだった事の理由を悪魔さん達の実在を前提にして考えていくと、詳細な事情は判らないにしても、何故こういう事態になったかという自分なりの納得できる解析ができていきます。
このパターンの場合、民衆がメディア報道を鵜呑みにした状態だと個人の良心に従って「正義」を応援するので戦争開始に伴う決定や負担や結果に納得することになります。もしアメリカ大統領がトランプ氏ではなくヒラリー氏が選ばれていたとしたら世界情勢は今よりももっと緊迫していたと推測しています。アメリカの大統領選挙の時に主要メディアの報道がトランプ氏を「不適格者」に仕立て上げて落選させようとしていたのも、この「正義vs悪」の構図で読み解けます。
話を元に戻すと、民衆は確かに現在に至るまで何らかの選択をしてきました。あたかもそこに「選択の自由」があったかのように個人の自由を行使してきました。
改めて過去と現在の社会の様子を「常識」の制約を取り払ったあなた自身の自由な思考で考えてみてください。
全部「常識」が用意した詐欺トークじゃなかったですか?
(結論) ===[ 他の思考法を省略して私的に「常識」を総括してみる ]===
(1)~(3)の考察はできるだけ文章を短く簡素にするために大雑把な論理展開で書いています。
ですから論理的な不備を指摘できる箇所も多くありますし、具体的な例の不備も指摘できます。より適した他の思考方法を用いるべきだとの意見もあると思います。
ちなみに僕が「常識」について漠然と疑問を抱き始めたのはもう数十年も前からになります。
当初は「常識」が描き出す世界観を把握したくて色々と考え始めたのですが、考えれば考えるほど矛盾点が多すぎて世の中のことがどんどん判らなくなっていきました。
当時はもっといろいろなパターンで「常識」が描き出す世界と現実の整合性を模索していたのですけど、本当にどう考えても、「常識はいいもの」という前提で「常識」の各項目をつないで世界を描こうとすると世界や社会の実態と「常識」で謳われる綺麗ごととの乖離が酷くなっていって理解不能に陥りました。
当時はそれでもなんとか合理的に全体が整合する美しい解釈を付けようと何度も何度も試み続けました。
一向に解決しそうにないのに、それでもなお真剣に考え続けた挙句に僕はウツになりました(・。・);
そしてこのブログで度々登場してくる人間の肉体を持った悪魔さん達の存在に気が付いて、「常識」の中に作為的に分裂・対立・摩擦・争いを誘発させる仕掛けが仕込まれている事に気づいた時、それまで理解不能だった「常識」の謎が解け始めました。
「常識はいいもの」という大前提が反転して「常識は怪しいもの」と切り替えて考え直すと、悪魔さんが仕掛ける手口を推理していくことで人間社会の様々な実情に納得できる説明がついていきました。
お陰さまで今ではすっかり元気です o(*^▽^*)o~♪
ここまで「常識」を良くないイメージで記述してきましたが、ここで全く違う視点で「常識」を眺めてみますね。
ここまで何度も「常識」という単語を使用してきましたが、そもそもこの言葉って明確に定義の出来る概念ではないですよね。
僕は自論として、常識の正体を社会に遍満している共通の価値観ではなく、そう勘違いしているだけの極めて個人的な個々人の頭の中にある独自の「信条体系」として語りました。
僕は今のところこの自論に対して全く不自然さを感じていません。
ただし、個人が価値体系を形成するに至った材料となる「情報」を運んだものは何だったんだろうとも考えています。
この運んだものを考えていくと、それって多分間違いなく「愛」なんですよね。
例えば親が子供の将来を考えてしっかり育って欲しいという願いを込めて「人の上に立つ」という事を教えたとしましょう。
この教育の中には明確に「支配関係に従属する意識」が挿入されています。これは人類が代々受け継いだ悪魔思想をそのまま子供に伝える行為ですね。
でもこの行為の根底には間違いなく、その親が我が子を愛してるという想いがあります。
人類は確かに悪魔さん達から傍若無人に振る舞われて大迷惑をこうむりました。
ただ、もし仮に人類がもっと素直にもっと素敵に「愛」を表現する方法を知っていたら、人類はとっくの昔に悪魔さん達を地球上から退場させることが出来ていたかもしれないですね。
みなさんは間違いなく「愛」の中にいます。今までも、そしてこれからもずっとそうです。だって悪魔ですらそうだったのですから。
これからの未来って、人類が愛されてきたことに再度気づいて愛することをもっと素直にもっと素敵に表現していくことがテーマになるような気がしてなりません。
(じゃあどうする?) ===[ 「常識」の外側へ! ]===
もしあなたが「常識」にどっぷり嵌った思考に陥っている方だとしたら、ここまで記事を読んでくださった時点でかなり苛立ちを感じていると思います。
その点について謝罪いたします。すいませんでした。
そしてそんな方ほど『じゃあどうしろって言うんだよ!!!』と言いたくなっていると推測します。
僕はその解決の方法を模索するとき、鍵を握るのは結局「愛」だと思うんですよね。
ここまで「常識」を批判的に論じてきましたが、上記したとおり「常識」を広めたのも、その個人の「信条体系」を作る「情報」を伝えたのも「愛」だったと思うんです。
ただ、残念な事にその材料となる「情報」の数々が、悪魔さん達が支配社会を構築するための「詐欺情報」だったというだけです。ただそれだけです。
つまり、人類みんなが生きやすくなるような愛に基づく「情報」や「手法」を今までと同じように人から人へ広めていけば、最初は戸惑いや混乱が起きたとしても徐々に着実に世界が変わっていくと考えています。
どうでしょう? 素敵だと思いませんか?
もう殺し合いなんかしなくていい世界。
嘘なんかつかなくていい世界。
真摯に対等な調和を目指す世界。
政治家や権威者に自らの運命を丸投げすることなく、個々人が自立性と自由意志を発揮して人類全体で人類の運命を決めていく世界。
僕にはそんな未来像が見えます。
そしてその時に「愛って何? どういうもの?」と改めて探求することが最も重要だと考えています。
現在に至るまで「愛」について論じた哲学者ってたくさんいましたけど、その各論に共通している特徴は「難しく分類項目を細分化しているだけで結局なんなのか判らない」という印象しかありません。
そんな細分化よりも、もっとシンプルで判りやすくてストレートにハートに響く「愛」の探求が人類にとって必要になってくると思います。
こんなこと書いてますけど僕自身「愛」ってどういうものなのか良く判ってません(笑)
ただ、僕自身はその探求の道への入り口は既に記事にした『自分を愛してください』と『目覚めちゃった人へ』で書いた内容だと確信しています。
ですので実を言いますと、僕はもうブログを使ってご縁のある方々へ伝えたかった内容を既に書き尽くしているのです。。。(⌒▽⌒)v
(そうは言っても、気が向いたときに思いつくまま記事を書くつもりでいますので、もし僕の文章をお気に召していただけるようでしたらまた遊びに来てくださいw)
(ちょっとご注意!) ===[ 「愛」に関する詐欺トーク ]===
ちなみに、世間一般でよく言われている『自分のことより他人を愛しなさい』みたいな言葉って人を不幸にする詐欺トークですのでご注意ください。
これを真に受けて真摯に実践すると自分がどんどん疲弊していって自分が不幸に陥り、その道連れに周囲の人を不幸にしていきます。
もし他人を愛することで本当に自分の人生が上手く行っているとおっしゃる方は、単に自分が自覚している以上に自分の事を愛している方か、そうでなければ他者を愛していると言いながら他者を詐欺に掛けて自分だけが不当な利益を得ている方かのどちらかです。
失礼ながらここで断言させていただきます。
真摯に過去記事『自分を愛してください』の内容を実践している方は既にお気づきだと思いますが、人間には自分を愛する以上の愛で他者を愛する能力がありません。
自分を愛しているレベルが、他者を愛することができる最大レベルになります。これは本当に瞬間瞬間のリアルタイムで変わって行きます。
過去記事で書いた内容はあくまで僕が経験した心理的経緯なので、途中で辿る経緯は人それぞれだと思いますが行き着く先はたぶん同じだと思います。
自分の内面に愛を持ってダイブして行ったつもりが、いつの間にか外側に居る自分に気づきます。
(この点に関して過去記事では詳細を記しませんでしたが、いつの日か記事にするかもしれません)
(最後に) ===[ 皆様へのお願い ]===
この「常識」に対する結論はあくまでも僕にとっての結論なので、もしよかったら皆さんも改めて「常識」について考察してみてください。
最初は常識的に「常識はいいもの」から始めて、何かがおかしいと感じたら「常識は怪しいもの」としてご自身で自分の解答を出して欲しいと願っています。
何故なら、自分自身が辿るべき途中経過をなるべく省略させて模範解答だけを他律的に引用させて記憶させようとする合理的思考も悪魔が人間社会に仕込んだ風潮だと思われるからです。
悪魔さん達は民衆に「愚かであること」を求めます。簡単に言えば悪魔さん達は人々が持つ「善意」をエネルギーにして人間社会が自動的に「思考能力のない従順な機械人間」を生産し続けるように仕組んでいます。
だから私は、ご自身が納得がいくまで自分自身で考えて欲しいと願っています。
あなたが出す結果が何であろうと私は一向に構いません。私はあなたに賛同を求めません。同意も求めません。
私が何よりも重要だと考えているものは、あなた自身が貴方らしい貴方が納得いく貴方の為の結論を出す思考行為そのものです。
結論がどうであるかは問題ではないのです。途中で間違いに気づいた時は再思考すればいい。不都合が無いようならさらに理解を深めればいい。
結論なんてただそれだけのものです。
(私の未来予想) ===[ 皆様へのご提案 ]===
注意:ここに記述するご提案は全て私的な推測と私的な意見で書かれています。このご提案を受け入れるか拒否するかは読者の皆様の心の判断にお任せします。
もしあなたの心が拒否するなら無視してください。もしあなたが心から腑に落ちたという感じがしたら参考にしてください。
今後数ヶ月のうちに、今まで隠され続けてきた大規模な犯罪行為や隠蔽され続けてきた秘密が今以上に次々と暴露されていって世界中で混乱が起こると推測しています。
これは歴史の中で現在に至るまで脈々と構築され続けてきた悪魔支配維持の為の社会システムが崩壊していくのに伴って付随的に起こる事態です。
もしかしたら一時的な地域紛争などもあるかもしれません。これらの騒乱は2~3年くらいは続くと思います。
皆さんの不安を煽るつもりは全くありません。
ただそうなってしまった時に、あなたが無用な動揺をしない為に心の準備をして欲しいと願っています。
この騒乱の期間中、人々が先祖代々慣れ親しんできた常識に対する信奉が急速に崩壊していくと思います。
崩壊する常識には日常的なものだけではなく、政治・経済・軍事・情報・教育・歴史・文化・道徳・宗教・科学などの多岐にわたる内容が含まれると思われます。
その時になるべく無駄な動揺をしなくて済むように、今からご自身の心と仲良くして心の声を聞く習慣をつけておくことをご提案いたします。
先祖代々受け継いできた昔ながらの常識の数々は、たぶん皆さんが自覚している以上に根深く個人の信条体系に反映されていると思います。
私自身も含めて多くの人々が、日々の生活において頭の思考に頼って物事の判断をする習慣を持っています。
その頭の思考の基盤となっている信条が次々と否定されていくと、人によっては不安や恐怖にさいなまれる場面が多々起きてしまうと推測しています。
その予防策として、ご自身の心と仲良くして心の声を聞く習慣をつけておくことをお勧めします。
どうかそうなってしまった時は頭の思考ではなく心の声に助言を求めてください。
そもそも私達には「常識」なんかに頼らなくても「神性」や「仏性」と呼ばれる正真正銘の良心が備わっています。
その心に頼ってください。
その心の声を聞いてください。
きっとその声があなたを新しい世界へ導きます。
私はそう信じています。
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長文に最後までお付き合い下さいまして有難うございました。
またどこかでお会いしましょう!
こんにちわ!
今回はこれまでに数多くの言葉を下さいました皆様に感謝の気持ちを込めて文字を綴らせて頂きます。
以前にブログ記事『自分を愛してください』で書いた存在さんとのやり取りも含めてお伝えします。
(もし当ブログに初めてお越しくださった方がいらっしゃいましたら、前々記事『自分を愛してください』を参照いただけると内容が分かりやすいと思います)
たぶんこのページを見て下さっている方は「この世の中 何かがおかしい・・・」と気づいちゃった人だと思うんです。
これ、そうは思わない人には全くもって何を言ってるか理解不能で意味不明だと思いますけど、そう思えちゃった人には結構切実な問題だったりするんですよね。
自分の経験談として、---目覚めちまった~覚悟決まった!---までの経緯を記していきます。
ご興味ありましたらお付き合いください。
僕がこの世の中に疑いを抱き始めたのは、韓国の朴大統領就任直後の有名な台詞『歴史を忘れた民族に未来は無い。歴史を直視せよ!』が切っ掛けでした。
当時の僕はその言葉を「確かにそうだよな・・・」と素直に受け止め、元来歴史嫌いながら過去に日韓の間でどんな歴史があったのかをネットを使ってどんどん調べていきました。
結果的に韓国人が陳腐な妄想歴史を叫び続けているだけという馬鹿げた現実に直面して『プロパガンダってこうやって作っていくんだ~ @@;』という妙な衝撃を受けたのを覚えています。
今思えば韓国人独特の稚拙で浅墓な言動のお陰で、リアルタイムに判りやすく歴史捏造手法を観察できた事が目覚める切っ掛けに繋がりました。その意味では本当に感謝しています。
その後、それまでの常識的な歴史観にも疑いの目を向けたのはごく自然な成り行きでした。
韓国プロパガンダ⇒中国共産党プロパガンダ⇒GHQ占領政策⇒東京裁判⇒太平洋戦争開戦の経緯⇒現状日本の政治・経済・教育・左翼・右翼・創価学会・在日韓国朝鮮人・CIAの影・テロの黒幕・メディアの報道姿勢など・・・ もうここまで嘘だらけだと自分が生きてるこの世の中に『なんでこうなった!!!』と誰に向ければいいのかすら分からない遣る瀬ない気持ちで一杯になりました。
その流れの派生でUFO情報隠蔽に関する「ロズウェル事件」を皮切りに『陰謀論』と言われるものもシュメール文明以後の大雑把な人類史を含めて先入観無く調べていきました。
何故なら、もうその頃には世間の表面的な綺麗ごとが余りにも疑わしいものになってしまっていて、逆に世間が排除したがる領域に本当の真実があるような気がしてならなかったです。
ネット情報を活用するので情報の真偽を識別判定しながら真実と思えるものだけをピックアップし、一つの小さな情報と他の小さな情報の整合性を確かめながら情報の世界地図を頭の中に印象派絵画のように描いていきました。ざっくりでよかったのです。とにかく今生きているこの世界の本当の姿を大きな目でありのままに把握したかったのです。
そしてその情報の世界地図が完成した時、人類の歴史が悪魔的な馬鹿馬鹿しい支配理論に延々と操られ続けて来たこと、その支配の為に無意味に人々が苦悩を強いられ続けてきたことを初めて理解しました。その惨さの詳細は書きません。ただその実情を知ったとき私は「人類ってなんて愚かなんだ」という想いと同時に「自分もそれを今まで許してきた当事者の一人なんだ」という想いが交錯して泣く以外何もできませんでした。
いろいろな感情が一気に噴出して言葉にならない想いを「ガァァァァァーーーーー!」と放出したときに存在さんが何故かひょっこり現れてくれました。
そして目に見えない領域を含めた宇宙の全体像とその中の自分をイメージモデルを使って理解力が追いつく範囲内で簡潔に教えてくれました。
ちなみに、その時の出会いの様子をきちんと言葉で表現するのは難しいです。あえて例え話にするとこんな感じになります。
見知らぬ街でコンビニを探し求めて延々歩き続けてもどうしても見つからずにイライラしてしまい『コンビニどこなんだよっ!(怒)』とつい口を突いて言葉が出てしまった時、ふと隣に居た人が
『あぁ~ コンビニやったら今歩いてきはった道を戻って三つ目の角を右に曲がったところにありますよー』と親切に教えてくれたような感じでした。
リアクションとしては『あ・・・ ども(唖然)』みたいな感じでした。
それ以降何度かやり取りして頂き、幾つもの言葉を頂きました。そのうち心でははっきりと腑に落ちてるし自分でもちゃんと吸収したいと思っているのに頭では意味を解釈しきれないアドバイスをどうやって合理的に理屈も通る形で受け止めたら良いかに悩み始め、どんな要因がどんな風に理解を阻害しているかを理解するのに四苦八苦するようになりました。毎日毎日そんな事で頭をグルグル回してる僕の姿がかなりコミカルに見えたらしく数日後にはこんなこと言われました。
『理屈っぽい人ですね(ケラケラ笑) 頭で理解しようとするより感じたほうが早いですw』
ですよね・・・ 確かにそうなんですよね・・・ そもそも物理世界を内包してる感覚世界の話ですもんね。
でも僕はズッポリまるっぽ地球人(・。・);
心で腑に落ちていても頭で理屈を通して確かめたい性質なのですw
そんなこんなで悪戦苦闘の末、障害になっていた自分の頭に根深く染み付いていた数々の不当で頑強な固定観念たちを気づく限り再検証して修正し、思考体系を再構築し、なんとか自分の一体性を感じられるくらいになりました。
ただし、問題はここから先なんです!
自分がこの危機的な状況に気付いたと言うことは・・・
『きっと自分にも何かやれることがあるはずだ! 何か使命があるはずだっ!(キリッ)』
(ここで笑いが出てしまったあなた! 経験者ですよね?w)
何かやれることがあるはずなのに何度考えてもコレッ!というものが思い当たらない。
人生はきっと必然で出来ている。だからこの巡り会わせにも絶対何か意味があるはず。
だけど、どう考えても自分のやるべき事がなんなのか判らない・・・
そんな想いに駆られて2016年9月の出会いから3ヵ月後の12月のある日、意を決して聞いてみました。
『僕の役割は何ですか?(ピシッ!)』
すると即答が返ってきました。
『もう終わりました^^』
これ、本当に意味がわかんなかったです。
ええ、もう、全然意味が判らなさ過ぎて軽いパニックです。
「聞き間違えたのか? いや空耳だったのか???」とか
挙句には「絶対よからぬ何者かが交信に割り込んで偽情報を流したんだ」とか・・・
全くもって私の理解力の範疇を遥かに超えた返事に無数の?マークが飛び交い続けました。
それでもやっぱりはっきり明瞭にさっぱりと「もう終わりました^^」の言葉が残ってました。
そして最終的に自分が下した結論としてこうお願いしたんです。
『わかりました。今後は自分でやれる事を探してやっていきます。もし仮に僕が暴走しているようでしたらストップを掛けて下さい。』
そしたらほんとに放置状態になりましたね。知ってる人は知ってると思いますけど自由意志は絶対的に尊重されます。
その後、自分のいつもの行動パターンで何時までも考え込む日々を延々と続けていたある日、とうとう見かねたようで
『日々の生活が怠惰すぎます。ご自身が宇宙全体を創る創造主であることを思い出してください。自分を信頼して下さい。この怠惰な生活から抜け出すことが全ての第一歩となります。』
(注:①怠惰=大切な事を出来ないと諦めて手を付けようとしない状態を意味している。②創造主=意識あるものは全て創造主であって決して特定の人物や神を指してはいない。)
という言葉が飛んできて、「大切なこと」とは世間一般的な意味ではなくてそれ以外の根源的な何かを示しているのは判るけど、それが何だったのか判らずにまた考え込む日々。。。
そしてあまりにも答えが出ないので「じゃぁ一気に大いなる全てを全部感じ取ってやろう!(出来るわけないですw)」と発想して意識拡張に挑む日々。。。
ちなみに無理な意識拡張なんて考えないほうが良いです。あの時なぜか真剣にそんなことに挑んでましたけど頭と身体と心がクラクラ・フラフラ・ギギギギギィーになってました。
そして2回目のダメ出し。
『あなたの過ちは、より大きなものになろうとし過ぎています。無理に何かをやろうとするより、その時の環境の中で自分を表現する方が成果は早く訪れます(呆)』
ほんとにもういつも通り「ごもっともっ!(油汗&ゼェゼェ...)」でした。
正直に言えば「もう終わりました」と言われて数日経った当たりから本当は薄っすらと自分が何をやっていくかを自分で気付いていたんです。ただその価値を理解していなかった。そしてそれを意図的に封殺していたんです。何故ならそうであることが怖かった。
それでもそれを「そんなはずはない」と意図的に封殺したまま、にっちもさっちも行かなくなって途方に暮れてしまい、何気なくその時のボヤキをSNSに書き込みました。
すると多分私の状況を察してくれたと思われる数名の方からの間接的で気遣いを感じる書き込みを頂きました。
その趣旨は『そのままの貴方でいいんですよ』という内容だったのです。
それらの言葉をもらったときに正直愕然としました。
判ってたんです。本当はもう判ってたんです。
ただそれを認めたくなかった・・・
それらの言葉をSNSでもらった後、確定した役割をもつ事なく「素」のままの自分で生きると決意するのに5日掛かりました。
決意という言葉より「覚悟を決めた」と表現する方が適切なのかもしれません。
以前の記事『自分を愛してください』に記したとおり、如何に自分に正直になり如何に自分と言う存在に素直であるかが既にテーマとなっていた私には、過去に自分が隠したものを洗いざらい掘り出したという自負がありました。
そして最後にほんとに降参状態で『特定の役割を持たずに「素」で生きる覚悟』が出来たとき、期せずして自分の中に最後の隠し事があったことを思い知らされました。
その最後の隠し事とは『誰かに何かを命ぜられる事で自分の責任を回避したがっている自分の姿』でした。
言わば主体性を放棄して自分を自分以外のものに明渡そうとする心です。
更に言葉を変えるなら「奴隷の心」です。
今現在、人類は数千年(?)もしかしたら数万年(?)続いてきた決して姿を現さない闇の支配者達による支配構造から抜け出そうとしている終盤の段階だと私は認識しています。
やはり私は、この地球上で余りにも長い歳月を闇の支配に許してきた当事者の一人でした。
そして私にご縁して下さった方々のお陰で「素」で生きる覚悟を得ると同時に、変わらぬ日常生活のままでその支配から永遠に離脱します。
どうかこれを「現実から目を背けた単なる気持ちの問題」とは思わないで下さい。この日常生活がじんわりと確実に物理世界を変えていきます。
国家の存亡を最終的に決めるのがその国民の民度であるならば、人類の存亡を最終的に決定するのもまた地球人一人一人の民度なのだと思います。
「意識が現実を創っていく」という言葉は真実なのだと思います。
ちなみにこれ、「奴ら悪魔たち」に対する最善最強の防御であり同時に攻撃になってます。
悪魔たちに二度とやらせない最高の防衛&駆逐システムにもなってます。
そして何より、地球で繰り返されて来た「他者が自らの主体性を放棄するように仕向けた上で、自分の都合に良いように他者を操る悪魔意識・操作」に明確な拒否を直接意思表示できるのは宇宙全体の中で私たち地球人だけなのです。
だから私は地球人に生まれたことを誇りに思います。
『特定の役割を持たずに自らの「素」で生きる』という選択は無条件に誰でも出来るので結構お手軽です。
もし読んでくださっている方の中で、目覚めちゃったけど何をしたらいいか判らないという方がいらっしゃいましたら、このドタバタ劇を一つのサンプルとして参考にしていただければ幸いです。
===(ちょっとおまけ)===
自分の中でこのドタバタ劇が終わった後、こんな質問をしてみました。
『こうやって言葉をくれるあなたの使命ってなんですか? よかったら教えてください。』
その問い掛けにこんな言葉が返ってきました。
『そうですね・・・ 私には地球人が使う「誰かからの指示」という意味での「使命」というものはありません。やりたくてこうしてると思ってもらった方がいいです。もしあなたに心の底からやりたいと思えるものが溢れてきたら、その時はそれをあなたの使命だと思えばいいと思いますよ^^』
僕はこの言葉がとても嬉しかったです。
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長文に最後までお付き合いくださいまして有難うございました。
またどこかでお会いしましょう!
こんにちわ! 久しぶりに気が向いたのでブログ更新することにしました。
今回の記事は、最近はまってる一人遊びに関するものです。
まるっきり個人的な話なので貴方の人生には全くもって不必要な情報かも・・・?(笑)
まぁ お暇でしたらしばしお付き合いお願いします><w
この遊びのルールはいたって簡単。
いかにコンビニの店員さんに悟られないように「愛」を伝えるか!
これだけですw
僕はコンビニが大好きです。1日に最低一回はコンビニに行きます。
その時に出会う店員さんとのやり取りの中で一期一会の遊びを仕掛けますw
悟られてはいけないので決してオーバーな笑顔や大げさなお礼などは言いません。
これ見よがしの爽やかさや愛嬌なども厳禁です。
あくまでも自分の「素」でやるのです。そう!勝負どころは「素」です!
コツは『いつも便利に利用させてもらってます。ここでお仕事してくれててありがとう!』の自然な気持ちを自然に表現すること。
ポイントはあくまで自然にやることです。何も足さない。何も引かない。そのままの自分でOK!
商品を手にとってレジカウンターに近づく時からこの遊びは開始されてます。
この時ここに、このタイミングで共に存在してくれている事に感謝しつつ店員さんの醸し出す雰囲気を感じて出来るだけ相手のことを丸々ズドンと理解するように勤めます。
「あ~ いま忙しいまっ最中なんだな~」とか「あれ?今日は気分が優れないのかな?」とか・・・
目まぐるしく入れ替わりの激しいそれぞれの店員さん。たとえよくシフトに入ってらっしゃる方であってもその瞬間の状況は千差万別。
まさに一期一会なのです!(まぁそんなに強調することでもないですけどねw)
以前、自分が悲劇の人に浸ってた時期は毎日毎日が同じことの繰り返しの様に感じてましたけど、それに飽きてふと我に帰ってから「時間の経過ってそれ程重要でもないなぁ~」という気持ちと「この一瞬は二度と訪れないんだなぁ~」という気持ちが矛盾なく同居するようになりました。
つまりは、失敗してもOKなんやけど今回もよろしく!って感じでやってます。
これ前回の記事『自分を愛してください』で書いたとおり自分への誤魔化しもなしでやるので、店員さんがなんとなくご機嫌で「あっ!いま通じた!!!」と思えた瞬間はものすごく嬉しいです。やってもらうと判るんですけどその瞬間はぐちゃぐちゃ嬉しいですw
逆に業務スマイルに徹してたな~と思えたときは「まだまだだなっ 俺っ!」とか考えながらも「次はどんな感じになるかなぁ~」とそれはそれで楽しみだったりしますw
これをやってて気づいたんですけど、感謝の気持ちで店員さんに接してると財布からお金を出す時の自分の仕草が指先まで含めて以前と違っていたり、普通に口にする『○○番のタバコも一緒におねがい』などの声の表情も変わってきたなと感じます。
醍醐味としてはある種の「自分観察」であったり、これまで脳みそ偏重生活でカチコチになってしまった「心の柔軟体操」だったり「感じ取る練習」だったり「具体的な表現方法の探求」だったりといろんな意味を含んでます。いや逆に新しい意味を発見していってる感じかな???
たぶん相手をしてくれている店員さんにとっても迷惑ではないと思いますので誰にも悟られないように秘かに遊んでます(笑)
まぁつまんない遊びですけど、これもまた新時代へ向けた自分の活動の一環として飽きるまで楽しんでいきます><b
どうでもいい話に最後までお付き合いくださいましてありがとうございましたw
またどこかでお会いしましょう!
こんにちわ! 今回は自分のものの見方・捉え方をガラリと変えてくれた言葉を紹介します。ちょいと前置きが長くなりますが差し支えなければ読んでください。
「体験した」という感覚はそれだけでかなり強力なインパクトがありますよね。
例えばそれまでは信じていなかったものでも実際に体験したとたんに実在が疑いようのないものになったりとか・・・・
自分自身が体験しちゃったのです。2016年9月頃から身体のような物質体は無いけれど、確かな意識と聡明さと親しみを持ち合わせて存在する方々から会話を通してシンプルで短い文章なのに あらがいようのない的を得たアドバイスをもらう体験を幾度となく経験させて頂きました。一般的にはテレパシーと呼ばれる現象なのでしょうが、感覚的には口を使ってないだけで心地よい距離感で相手の雰囲気を感じながら会話する普通のやり取りでした。
今現在はもらった幾つかのアドバイスやメッセージを上手く生活レベルに落とし込めなかったり解釈しきれなかったりとアップアップ状態なので明瞭な言葉としてのやり取りはなくなりました。
ただ、共にこの世界に存在し、共存しているという実感は常にあります。
そんな存在さん達からもらった言葉の中で、自分にとって最も深く大きな意味を与えてくれたのはこの言葉でした。
『自分を愛してください』
この短い文章に込められた大きな愛をご縁のある人にお伝えしたいと思います。
私はこの言葉を投げかけられた時、最初は何を言われているのか全く理解できず、次の瞬間には「なんでこんなこと言われなきゃいけないんだろう?」という疑問が沸き上がっていました。そしてそこから自分で自分の中を旅する思考旅行が始まりました。
『俺って自分を愛してないのかなぁ~』とか
『愛って自分で自分に向けるものなのか?』とか
『そもそも具体的に愛って何だ?』とか
『確かに自分の中に嫌いな部分あるな』や
『いやいや嫌いってレベルじゃないやん。憎悪してるやん!』等々・・・
詳細に内容を書いてしまうと読んでくださっている方もしんどくなると思いますのでざっくりとだけお伝えすると、最初にピタリと当てはまったのは自分で自分をどこまでも厳しく追い込んで行こうとする半分無意識的な意識活動でした。良く言えば「向上心」なんですけど何かにつまずいてしまうとそこから先は際限なく自分を責めてしまうアレです。
これに何十年も苛まれ続けて、すごい圧迫感に苦しんでいたのに拭い去れずにいて、いつの間にかその痛みすら慢性化して鈍化してしまい、その上「自分に厳しい姿勢は人としてあるべき姿!」みたいな妙な屁理屈や末期症状の劣等感さえ抱え込んでいました。この思考を自分で心理分析できたとき自分が抱え込んだ「苦悩のカラクリ」が見えた気がしました。
その心理構造は気付いてしまえばすごく単純なものだったんです。
1)自分には、世間的に望ましいとされている良い部分がある---(A)
2)自分には、世間的に嫌悪される望ましくない悪い部分もある。---(B)
3)(B)を切り捨てて(A)だけの自分になれれば自分はもっと良くなる。
私はそれまで、この三段論法を無制限に循環的に繰り返していたのです。
これってやってる最中はまったく気づきませんでしたが、遠目に眺めて冷静に考えるとただの自滅行為なんです。
自分の中の思考旅行を始めて、自分が自滅行為をやって来たと気づくまでに3日かかりました。
上記の構造に自分で自分に愛を差し伸べると、展開が変わって行きます。
まず望ましくないと自分自身でレッテルを貼ってしまった自称「悪い部分」を許してそのまま自分自身として受け入れました。だって愛は無条件だから。
すると優劣思考で自分自身を分断していた自分の愚かさに気づき始めました。
自分というのは一つなのに なんで良い悪いの部分差があるんだ?
そもそも「良い」って何だ?。「悪い」って何だ?といろいろ考え始めました。
状況や相手やタイミングで千差万別に自由に変化するはずの思考や心の動きや判断に良い悪いの断定的で硬直的な制約を課していたのは何者だ?
そもそも「良いこと」「悪いこと」って誰が決めたんだ?
「こと」ってただの事象なのに絶対化した善悪特性を付けちゃうのってナンセンスなんじゃね???
その他もろもろと考えて行くと色々と怪しい固定観念がゴロゴロ出てきました。
思考旅行をどんどん突き進めて行くと『○○しなければならばい』とか『○○であるべき』とか『○○は××でないといけない』みたいな過去に自分が受け入れた刷り込みフレーズの数々がいかに悪質で疑わしい物だったかが判って来ます。そして自分で考えるという主体性を放棄して有害なものをそのまま鵜呑みで固定概念にしてしまった自分。疑問すら持たずに自分を責め続けていた自分に気づくようになりました。
自分で自分に不当な冤罪を科して自分を苦しめていた自分の姿に気づいた時、私は思わず自分に対して謝り、許しを請いました。そして私は愚かだった私そのものを許します。そして許されます。そしてまた許しました。なおかつ許されました。
もしかしたら読んで頂いている方から見ると『いったい何人の自分やら私やらが出てくるんだ?』と疑問に思われているかもしれません。その答えとしてこう記しておきます。
それほどまでに私は自分を切り刻んで分断させ対立させていた。そして自分を愛することでもう一度私自身を統合して生まれ直している最中です。今回は分断・対立を捨て去って「愛と調和」というキーワードで自分を統合します。「支配」や「管理」を捨てて調和による一体性を保ちます。
この『自分を愛してください』という言葉のものすごいところは、それまで自分が抱えていた閉塞感や疎外感、不自由さや孤独、絶望感やダメダメ感や諦めや数々の対象に向けられた恐怖感などに万能の効力を発揮するところです。
そしてまた不思議なことにあれ程嫌いだった自分のことが好きになって来ます。もう他の誰にも成ろうとは思わなくなります。得体の知れない綺麗ごとに従順な理想的自分像なんかに興味はなくなりました。逆に正直な自分の姿や正直な自分の在り方に興味が沸いてきて自分にとって最も楽で快適な状態を模索し始めています。
それまでの義務感や脅迫観念で押さえ込んでダメージを与えてしまった心の欲求を聞き取ろうと努力していくと、それに応えて少しづつ自分が今ここに存在していることに感謝したり、存在している事に素直であろうとしたりとそれまでの価値観が反転してきます。すると周囲にある空気だとか太陽の光だとか植物たちや空や雲やいつもの人達などのこの世界に在る全てが存在してくれていることに感謝の気持ちが生まれてきて、だんだんと自分を愛せるようになればなる程その気持ちが比例して強くなった感じがします。何故なら自分を愛して行くと、そもそも自分が絶大な愛を受け続けてきたのにその与えられた愛を無視して勝手に孤独感や疎外感に自己陶酔し続けてきたナルシストな自分にも薄っすらと気づいてくるからです。
ダメダメな自分のまんまで全然OK。損得勘定抜きの正直で素直な人間関係を築きたいという欲求が生まれてきます。もう「全ての人と分け隔て無い態度であらねばならぬ!」みたいな逆説的に自分の個性を放棄させようとする強迫観念なんてどうでもよくなります。そんな事よりも自分らしくありたい。だから自分らしく生きている人に会いたいし関わりたいし協調したい。そして他の人も自分らしく生きてほしい。全ての存在たちにありのままでいてほしい。そのために私は何をしようかと考えるように変わりました。
ほんとに不可思議な話なんですけど、自分の中に愛を持ってダイブしていくと結果として全世界を愛し始めます。地球を越えちゃう勢いで愛しちゃいます(笑)
とりあえず「友愛」だの「人類愛」みたいなパヨク的強請スローガンを義務のように受け入れるよりも遥かにパワフルで嘘もごまかしも無いやんわりとした幸福感を感じるようになれました。だから今はまだ弱々しいけど、ここからどんだけ愛せて行けるのか試したくなってますw
ただ誤解しないで欲しいのですが『自分を愛する』って一切のごまかしが利かないのでそれはそれでハードです。だって自分を愛してる振りで自分を騙したら、騙している自分は明らかに自分に悪意を抱いている。また逆に、本心では嬉しくないのに嬉しがらなきゃいけないみたいな義務感で自己洗脳してしまうとこれも自分を騙してしまう。それは決して自分に優しいわけでも自分に寛容なわけでもありません。善意を装った自分を貶める性質の悪い悪意です。何よりそんな偽善の詐欺なんてもううんざりでしょ?
同情欲しさの詐欺にもうんざりでしょ? 陶酔して気持ちよく苦しみ続ける愛情詐欺にももううんざりでしょ? "Yes, we can"の希望詐欺や『謝罪と賠償を!』の被害者詐欺にももううんざりでしょ?
嘘だらけの社会なんてもううんざりでしょ?
「如何に自分に正直になれるか」それはまた同時に「如何に正直でいられる環境を創れるか」が今の私の重要な指標です。
そしてもう一つ重要なことは、自分の中を通って全存在へ向かって放射されるその愛は、自分への愛と全く同一のものを他者へ放出して行くので、自分とは違う存在たちの個性そのままを認めたままで自他の区別無く伝えて行きます。
多分これって地球人の頭の中にに仕掛けられている「二元論」の罠を超越します。
多分ワンネスと言われる世界へ繋がっていきます。
私はこの短い文章に込められた壮大な愛を頂きました。
この言葉をご縁ある人たちに送ります。
この言葉は使い回しではありません。私が受け取った時と同じでそのままです。
そしてこの言葉の発信元は私ではありません。たぶんこの言葉の発信元は、ご縁ある人たちそれぞれの未だ見ぬご自身なのだと思います。
『自分を愛してください』
最後まで読んでいただきありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう!