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ふわふわさらさら

こんにちわ! こうしてご覧いただけるご縁に感謝します。 気になること・なんとなく思いついた妄想などを気ままに描いていきます。 もし気になる部分がありましたら受け取ってください。 お気に召さないようでしたら「たわ言」と笑っていただければ幸いです!

心で考える

こんにちわ!

ひそやかに季節と雰囲気が移り行く今日この頃。
みなさん いかがお過ごしですか?

僕は8月末から現在に掛けて、自分の「望み」や「好み」や「信じていること」などが本心からそうなのかどうかを試されるような出来事が頻発していました(汗)
やっと一段落ついて落ち着きを取り戻してきた感じです。

これは僕だけなのかな???
もしかしたら「今がそういう時期なのかも知れない」という感じがするので今回はこの記事を書いてみます。

今回は僕自身が行っている「素の自分」を求める旅の一端を記述するつもりです。
いつも個人的な妄想記事を書いてますけど、この記事は特にその色彩が強いかもしれません(・。・);
そんな内容でもよかったらしばしお付き合いください。
読者の方々に楽しんでいただけたら幸いです。

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僕にとって去年の秋から現在までの1年間は自分の人生の中で物事を捉える感覚がめまいを覚えるほどに激しく、しかも駆け抜けるように急速に変化していった時期でした。
その間ずっと、自分の目の前で起こる出来事や過去に抱え込んでしまった辛い感情などを自分自身が一歩さがって自分の様子を眺めて観察してきました。

・僕が今この瞬間に感じているこれは何だろう?
・何故僕はそう感じている?
・そう感じる自分の心理メカニズムはどんなシステムになっていて何がどういう関連で何と連鎖してどのように働いているのかな?
etc...

特に内観や瞑想で自分の内面を探索する時は、そんな自分がいる事を認めることすらつらい自分の側面にも遭遇しましたけど、それでもどんな側面も認めて自分を理解していく行為は僕にとってすごく面白い体験だったし有意義で楽しい経験でした。自分の人生がこれほど楽しいと思えたことはこれまでになかったくらいです(笑)

その探検で発見したり気づいたりしながら変化していく自分は、過去に社会通念の価値観を鵜呑みにして矛盾だらけになっていたずらに自分を苦しめた自分の内面を掃除して、歪んでしまっていた精神構造をより自然な本来の在り方に回帰させながら「素の自分」に近づいていく冒険の旅でした。
そして今後も、出会っていく新しい自分の側面と共に変容しながらもっと本来の自分でより自然に生きていくことを楽しみにしています。

この秋からは自分だけでなく社会の様相もどんどん変化していて、今年が明けた1月の頃より自分の変化も社会の変化もそのスピードが共に加速していってるような感じがしています。
「変化」と聞くとついつい身構えて硬直してしまいがちになるけれど、ここまでくると過去の在り方に固執して不安がるよりも、ちょっとドキドキしながらも覚悟を決めて新たな在り方に向かって変容していく自分をおおらかに見守ってあげた方が気軽でいいな~と日々を過ごしてます。

みなさんはどんな感じですか?
いい感じ?

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=== 人と社会はフラクタル ===
僕はこの1年ではっきり判ったことが一つあって、以前は「自分の外側にあるものを自分に追加すると自分がよくなって生きやすくなる」と考えていましたけど、真相は全くその逆で「自分の内面の反映が自分の外界に出来事として登場している。生きやすさも生きにくさも実は自分が決めていた。」というのが事実でした。
(当然、現象として出来事が登場する前段階ではとても微細ないくつもの選択を含めた本心の選択を認めて日常生活で行動に移すことが前提ですけどね。)
自分という存在が自分の周囲で発生する出来事を決める発信源だったんです。

これはある意味怖くもあるけれど、やっぱり自分に関わるこの主導権は自分が責任を持って握っているほうがいいなと感じてます。
僕がかつてこのブログに書いた「自由と責任」とはこの意味で書いています。

たとえ表面的にはポジティブな行動であっても本心がしかたなく嫌々やることを決めたのであれば、結局は「嫌々やる」と決めた選択の結果が出来事に反映されてしまいます。
旧来の感覚で「責任」と聞くと失敗したときに周囲の人達から失敗したことを責められるイメージがなんとなく付いて回ると思いますけど、そんな旧来の意味とは全く別の「本心が決めたとおりの結果を受け取る」という新感覚の意味での「責任」です。
その責任には仕事の時に求められるような「目標を達成しなければならない」みたいな義務なんかもありません。仮に失敗して残念な状況が訪れたとしても、いつまでもそこに留まり続ける必要もありません。
もし自分ではっきり「間違いだった!」と納得したらそれを成果として受け取って即座に新しい方向性で新しいことを始めればいいだけです
それだけのことだったんです。

現代社会が持つ問題の数々を生み出す根源的な問題の一つがこの旧来の意味での責任に付きまとう表面上の自分と本心の自分との矛盾に象徴されていると思います。
僕は、失敗した時に周囲から責められるのを嫌って自分の決定権を自分ではない他者に預けてしまい、自分自身に関わる主導権まで他者に任せて思考の内容や行動を決めてしまう没主体的な生き方が現代社会の抱える数々の矛盾を生み出した原因の一つだと考えています。
(主導権を預ける先を例に挙げると「権威」とか「権力者」とか「偉い人の考え方」とか「みんなの意見」とか「常識」とか過去の成功パターンとか・・・)
世に出回っている情報の全ては自分にとっての参考だと思います。僕はこの1年で情報とは自分にとってどんな価値や意味を持つかを自分が自分で決めるものだと考えるようになりました。

誰かが僕にどんな意図でどんな事を言おうが自分の人生を歩むのは自分一人だし、自分の人生の喜びも苦悩も最終的に引き受けるのは自分一人です。
他人を批判していい気になる人の言動も、正義を力説する人の言説も、「これが本当のことなんだ!」と自分の意見を押し付けようとする人の言葉も、偉そうに「現実を見ろ!」と説教してくる人の視野の狭さも最後は僕の人生の責任を引き受けてくれません。彼らは最初から他者の責任を引き受けるような能力なんて持ってないんです。
思い返してみると他者にとやかく言う人ほど相手のことを判っているような口ぶりでレッテルを貼ってきたり誰の事を言っているのか判らない決め付けでいろいろな事を言ってきますが、安易にそんな態度をとる人に高い理解力や洞察力があるとも思えません(・。・)

素の自分を探索していくと「自分」という存在が持つ多様性やその深さに驚くことになると思います。
自分自身ですら理解しきれないのに他者にすべてが判るわけないです。

だからそんな人の意見も参考としてはありがたく頂きますけど、僕は自分に何をどう受け入れて何を拒否するかを自分に対して自分で責任を持って主体的に自由に選択する覚悟を決めました。
そう覚悟する方が本来の僕の性格にもあっている気がします。
他者の言いなりになって結果的に他者の言いなりになる人生を自分が引き受けてしまうのはあまりにも馬鹿馬鹿しいです。
結果の出来栄えに関わらず自分にとっての最良の選択を自分で決めていきたいです。

僕の西暦2017年はまさにその方針転換を少しづつ実践に移した年でもありました。
しんどいこともあったけど、いい歳をした大人になっても旧来の固定観念を「去り行くもの」として手放しながら新しい視点や感覚で生きるのもなかなかいい感じです。

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--- フラクタルとして眺めてみる ---

みなさん「フラクタル」(fractal)という言葉をご存知ですか?

大雑把に言えば「全体像とそれを構成する要素はそれぞれの基本的な形状や構造がよく似ている」みたいな意味です。

僕はいつの頃からか、なんとなくですけど自分の頭の中の様相と人間社会の様相がリンクしているように思えてならない不思議な感じを持っています。
まるでフラクタルな関係のように自己相似形をしているような感じです。

こんな突拍子もないことを言うとどこからともなく 「あなた... アホですか???」という声が飛んできそうですけど・・・

はい... アホなんです(・。・);

ただ、そんな感じを自分で認めたときに「自分が創造主」という言葉の意味がなんとなく判った気がしました。
僕自身が自分の在り方に似せた感じで自分の周囲の世界を創り出してるような気がしたんです。

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どうでしょう?
そんな気がしませんか?

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実際に自分の内面を自分のいろいろな側面を認めて愛で統合しながらしっくりくる感じに整えて自分自身に対する態度を変え始めた頃から、身の回りの人達の表情や態度や出会う人のタイプなども変わっていきました。
きっと人は自分を幸福にも出来るし不幸にも出来ます。どちらも自由に決められます。
ただ、今のところその制御に慣れてなくてまだ下手なだけなんだと思います。

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僕の持論として、肉体を持たない純粋な悪魔さんは実は人々に対して直接的に何も手出しをしていないと思ってます。
人間がもつその能力を利用して人間同士が勝手に勘違いして勝手に自虐行為におよんだり勝手に相克関係を築くように仕向けているだけだと考えています。

このイメージもいつの頃からかなんとなくずっとあるんですよね。
旧約聖書『創世記』に記されている楽園追放の話に出てくる「蛇」みたいなイメージです。
蛇はエバをそそのかしはしたけれど、アダムにもエバにも直接的な打撃は与えてないんです。直接的に打撃を与え合っているのは人間側のアダムとエバなんです。
ついでに言うと、アダムとエバが気まずい関係になった原因が「善悪の知識の木の実」という名称なのも僕にとってはなんだかとても象徴的なんです。

僕が持ってる肉体を持たない悪魔さんや人間の相克関係や善悪二元論に対するイメージが不思議とこの楽園追放のイメージと重なってきます。

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そんなこんなのぼんやりした想いもあって、僕は社会の構成要素であるその人の内面に従った個人の生活態度や行動が人の数だけ無数の発信源になっていて、それぞれの人の個性や考え方などに似合った小さな世界がまるで雨に打たれた水面のように小さな波紋を描きながら社会全体の様相を創り出してるんじゃないかなと考えています。
前回の記事で一人一人の「意識」や「思考」に言及したのもそれらに呼応した生活態度や行動を包み込みながら生み出している「母体」という意味を込めてこのフラクタルな社会のイメージに基づいて書きました。
新しい自分の内面から自分の外界へアウトプットした小さな世界が相乗効果で大きな社会変動と新しい社会の在り方を創りだして行くみたいなイメージです。
自分の特性や個性を自然にスムーズに無理なく発揮して互いに生かし合う幸せを望む自分の内面を外界へ素直に反映させていくと、結果的に自然に無理なく社会全体を新しい様相に変えていくようなイメージを持ってます。
医療に例えるなら東洋医学的な対処法ですね。

現実的のような非現実的のような話ですけど、僕はわりと真剣にそう考えてます。
なぜなら僕は人が持っている可能性を信じてるから。

だから案外、自分が愛で自分の中を統合しながら自分の中に平和で楽しくて分け隔てのない調和の取れた内面世界を自然な感じで成立させていくことってすごく大事なんじゃないかなと・・・
素の自分から発した想いに基づいて自分の周囲と幸せを求めて生きていく感じが、一般人として暮らしている自分としては社会に対しても個人としても無理がなくて現実的で有益だと思ってます。
これはこれでなかなか上手くいかないけど、古いものと新しいものが行ったり来たり右往左往したりしながらもそんな感じで個人と社会が同時進行で変容していくと信じてます。
(いま社会が騒がしいのも大勢の人達によってそれが進行中だからではなかろうかと...)

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僕にとっての捨て去る古いものを象徴しているのは「善悪二元論」で、新しく手に入れたものを象徴しているのは「ワンネスの可能性」です。
まだ詳しく文章にしたことはないですけど、僕はこの両者に対して結構深い思い入れがあります。

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そうそう、前回の記事で少し強い語気で善悪二元論のことを書いてしまったのでもしかしたら読者の方に誤解を与えてしまったかもしれません。
とても大事なお願いを一つだけさせてください。

決して善悪二元論を「悪い」とは思わないで下さい。
これは「越えて行くもの」です!!!
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自分が「越えたい!」と望んだときに越えていくものです。

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というのも善悪二元論の特性は一旦その世界からある程度でも出た後で、後ろを振り返るように眺めて総合的に解釈しないと何がどうなっていたのか判らないと思います。
もし善悪二元論でできた世界の中にいたままでこの件を「悪い」と捉えて考え始めてしまうと、頭の中に「善役のエゴ」と「悪役のエゴ」が現れて延々と不毛な論戦を繰り広げることになると思います。
善役と悪役に分かれてますけど、そもそもは一つの自分ないんです(・。・);

それって疲れるだけです(笑)

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この善悪二元論の対処法を例えるなら河の向こう岸みたいな感じかな?
向こう側に行ったからって凄いわけでもなく偉いわけでもなく自慢になるものでもないです。
ただ「こっち側はもう飽きたから次は向こう側に行ってみたい」くらいの感じです。
(僕は少しだけ前進できたような気がしてます。)

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それを越える時に鍵になるのは意識の拡張(≈心の発展)だし、その具体的な方法論になっているのが「自分を愛する」と「素の自分」です。
この二つを何度も書いてるのでもう飽きちゃってる人もいるかも知れませんね。 ごめんなさい。
僕はこれらの言葉を知ってから1年ほど経ちますけど、この二つの短い言葉が持つ難しさや多様性や多元性に未だに驚きを感じてます。
だから僕にとっては大好きな言葉だし大切な言葉です。

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=== 心で考える ===
自分を愛しながら「素の自分」に向かって変化していくと、そのオマケとして沢山の新しい視点や感覚や能力や理解力の向上を副産物として手に入れていきます。
これらは僕にとっても素敵なオマケです。
「心で考える」というのもそんなオマケの一つです。
(ちなみにこのブログの記事は全てこの思考法に基づいた内容で書いてます。)

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僕はこの思考法によって、それまでは解けなかったいろいろな疑問を大局的に捉えながら合理的に自分なりの理解が出来るようになりました。
もちろん科学的な基礎データを基にして論理的な思考だけで論を構築するものではないので、大多数の人と客観性や再現性によって合意を得るようなものではないです。
ただ、自分に降りかかった出来事に対して全体像がどんな構造をしていてどんなメカニズムによって稼動しているかを大局的に俯瞰して分析することができるようになります。

とりあえず僕はこの思考法を使って自分の人生が楽になったし、それまでは思い付かなかった結論や気づけなかった選択肢や可能性があることを発見できたのでみなさんに紹介しておきます。
ただ、自分の感性を基にしているのでここから出てきた結論はあくまで自分専用であることは了承してね。

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--- 脳みそさんと心さん(理屈と感覚) ---

内観や瞑想をしだしてから最初に発見した事は、自分の頭の中が既に過ぎ去ってしまっている沢山の過去の出来事にいつまでも文句を言ったり自分の正当性を主張する声で溢れかえっていたことでした。
それは今になって思い返すと狂乱としか言えないくらいに騒然とした状態だったんです。

そこでは「だって○○が正しい!」とか「◇◇であるべきだ!」とか「本当は△△なのに!!!」とかの理屈でいつまでも終わらない騒動が続いていました。
頭の中が慢性的にこの状態になっている事にも気づかずに新たに物事を捉えたり考えたり発展したりしようとしても、狂乱したそれらのノイズが阻害要因となって新たな思考や発想を妨害してしまいます。
つまり以前の僕は自分で自分の能力をわざわざ低下させていたわけです。

逆に言えば、それを掃除して整理して統合していくと自分本来の能力がスムーズに発揮されるようになって結果的に自分の能力が上がったり埋没していた思い掛けない才能が現れたりします。
例えば以前の僕は文章を書くのがとても下手でした。なのに僕はこのブログのコメント欄で産まれて初めて書いた文章を褒めてもらえました。
誰よりもそれに驚いているのは僕自身です(・。・);

自分の内面を愛で自然な感じに統合していくその初期の段階で僕はそれまで無視してきた自分の心に誠実になりはじめ、心が発信する「感じ」に気をつかうようになりました。
最初は「いい感じ」か「嫌な感じ」の二つだけだったんです。

しばらくすると「あれ? 心が運動してる???」みたいな感覚を覚えました。
この感覚は本当に不思議でした。だって動いてるんですもん(・x・)!???・・・

その後はその心の運動をどんどん自由にしてあげて、時には大声を張り上げる脳みそさんの声をなだめながら脳みそさんに心さんの想いをなるべく誠実に反映してもらえるように心がけていく様になりました。
言い換えればそれまでに出来上がっていた自分の無数の信念に、絶対的な正当性を主張することよりも総合的に物事を感じ取る心の想いを考慮してもらうことに慣れてもらいながら、より心の感覚に馴染むもへと更新してもらうことで心と脳みそが調和した状態になることを優しく根気よく試みるようになりました。

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自分を愛することや素の自分を探求している人は気づいていると思います。自分を不自由な状態にしている殆どの原因は社会ではなくて頭の中に張り巡らされた旧来の信念に無自覚に従属している自分自身なんです。
本来の自分の感性や感覚などの自分本来の価値よりも現代社会の理屈を無批判に鵜呑みにして出来上がった他律的な信念に盲目的に従っている自分自身なんです。
気づいてしまうとその信念の多くは「思い込み」や「勘違い」としか言いようのないものが大半でした。
(とりあえず僕はそんな感じだったな・・・)

「社会の理屈に合わせた信念に従う論理的な脳みそさん」が「本来の自分の感性や感覚などの自分本来の価値を秘めた心さん」を押さえ込んで支配している以前の自分の姿に、僕は現代社会の在り様と同じ構図を見ました。
「脳みその論理性は優れている。心の感性は突発的に何をしでかすかわからない愚かなものだ。だから脳みその論理に従え!」みたいな感じです。

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最初の原型になっている発想が互いの違いに優劣をつけて支配関係を構築していたら、それを基に拡張された思考が「互いの違いを認め合って調和する」なんて段階に到達するわけないと思います。
物事の違いに優劣をつけて善と悪のレッテルを貼っていく思考を先鋭化させても平等と調和のワンネス感覚なんて出てくるわけないような気がします。

せいぜい劣った方を優れた方に同化しようという発想くらいです。または劣った方を支配するとか制圧するとか...
そうでなければモデルケースを設定して正しい人間の振る舞いを規格化するか...
他に方法があるとしたら規則を設けて、状況に合わせて規則をどんどん細分化していくくらいだと思います。
物事に優劣をつけてそれに従うことが原型になったものの先に何があるんでしょうね?

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蛇足ですけど、僕が前回の記事で宗教団体に対して警鐘を鳴らした核心もここにあります。
宗教団体は真理の言葉や素敵な言葉を使って信者を募ります。
そしてその後に自分とは全く共通性が無くて自分とは隔絶された自分より上位に位置するものとして信仰対象を崇拝するように勧めます。

僕は自分自身を敬愛できない人がいくら作法にのっとって自分を卑下して信仰対象を崇拝しても神や仏を本心から敬愛できる訳がないと思ってます。
それどころか自分を卑下して崇拝してくる相手を喜ぶなんて悪魔さんか従属意識に強く傾倒した人間くらいだと思ってます。
僕には愛を説く神や仏が敬愛や信頼ではなく崇拝という行為で主従関係を築こうとする相手を喜ぶなんて思えないです。
もし信仰対象がれっきとした神や仏なのに誰かが崇拝することを勧めてくるようなら、その誰かがいったい何者なのかを見極めたほうがいいと思います。

神や仏と接するその時に自分が示せる誠実で精一杯の敬愛が少ししか示せない状態だったとしても、それを非難してくるような存在ならそれはそもそも神でも仏でもないと思います。
僕はそんな小さな存在が神や仏をやれるわけないと思ってます。

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そうそう、これはきちんと主張しておきますが僕は宗教をやっている人を批判しているのではありません。宗教の中にすら世俗の論理を持ち込んで平然としていることに警鐘を鳴らしてます。
僕の近所にキリスト教系の信者さんがいて、その人は自分の敷地に小さな集会場を建てて活動しているような敬虔な信者さんです。
その人と話をしたとき、その人が「私は自分の中に神様が居てくれていると思ってます」と言っていました。
僕はそれが嬉しかったです。思わずオーバーリアクションにならない様ににっこりしながら心の中で「ですよね♪」と返事しちゃいました(笑)
その人ともちゃんと仲良くやってます。いたずらに宗教をやっている人や宗教そのものを批判するようなことはしません。

延々と持論を語り続けちゃいますけど、僕は神と呼ばれたものも仏と呼ばれたものも仏法(Buddhist truth)と呼ばれたものも、そもそもは形もなく言葉でもないと思ってます。
その源になったものを感じ取った人達がそれぞれの言葉で他の人に伝えてたんだと思ってます。
たぶん宗教の根幹になるものは各種宗教が語る言葉や信仰対象物そのものではなくて、その言葉や信仰対象から受ける感覚を手掛かりにしながら神聖な何かを感じてるその人本人です。
価値があるのはその教義でもなくその信仰対象でもなく、神聖さを求めてそれを選んだその人そのものだと思ってます。
そんな人にこそ神聖さを求める自分自身を素直に尊重してもらいたいと願っています。

神聖な何かを感じたときに、感じた事を言語化するか感覚のまま直感として受け入れるか、それとも「気づき」として受け取るかは個人それぞれの「好み」ということでいいと思います。
当然「そんなもの感じたくない」と言う方は自分のその好みを尊重して感じなくてもいいと思います。
肝心なのはその人そのものだし、その人の本心が主体的に「望んでいること」です。主体は常に自分です。その望みが何であってもいいと思います。
(だからと言って他の人に迷惑は掛けないでねw)

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ごめんなさい、脱線しちゃいましたね。本題を書きます(笑)
僕が言っている「心で考える」という内容は、人によっては「イメージで考える」と表現した方が伝わりやすいかもしれません。
または好きな人に正直な想いを伝えようとして言葉を選んでる時の感じとか・・・

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他にも連想しやすいような言葉を書いてみます。

・いくつかの感覚や直感を組み合わせて全体的につじつまが合ってバランスがいい感じを模索する

・心の中で物事を俯瞰するように眺めて立体的に考える

・心の感覚を主体にして想いを言葉に置き換える

・自由な心で腑に落ちたことを感じたままに言葉にする

「何かがおかしい・・・」と感じ取ったときのそれ!

・空間で考える
etc...

こんなことを心の感覚を主体にしてやります
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参考までに僕がよくやる方法を書いておきます。
みなさんそれぞれに自分流の方法を模索してみてください。

僕がこの「心で考える」を実行する時はほとんどの場合、幾つかの「こんな感じ」を粘土のように自由に動くもやもやとした雲のイメージに置き換えて、それをいろいろと動かしていきます。
「こんな感じでどうだろう? あれ??? 何かがおかしい。 こうかな?」みたいな感じです。
やってるうちに直感的に「こんな感じだな」というところに落ち着きます。
そして時には途中で論理能力を補助的に使って感じている事の組み合わせや整合性をチェックしたりしながらやってます。
その内容が自分なりに納得できる内容になった段階で脳みそさんの論理能力と言語能力と知識を使って選定した言葉がしっくりくるかどうかをチェックしながら言語化していきます。
いわば感覚を主軸にして感覚と論理のコンビネーションプレイをしているわけます。

両者の関係をもう少し詳しく記述すると、心がマスタープランを描き 論理がディテールデザインを担当するような関係です。
この両者は互いを補完しながら互いを成立させる関係であって対立するものではありません。

マスタープランはディテールを生かし、ディテールデザインはマスタープランを具体的に築き上げます。
いわば相互協力の関係を保って自然な一体性のある思考を具体的に構築していきます。

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もしかしたら「感覚」を重要視する話を聞くとついつい反射的に「自然科学やテクノロジーと相反するもの」という印象を持つ人がいるかも知れません。
しかし僕はそうとは思わないです。

逆に少しでも心が持つきめの細かい多角的な思考に気づき始めると論理的思考の短所が気になり始めます。
論理的思考と聞くとなんとなく素晴らしいもののような印象を持ってしまいますが、実際には他の人には見せることが出来ない自分の思考内容をなるべく誤解や誤認が生じないように伝えるために発達した表現方法の一種です。いわば自分の思考を相手の中でその内容を再現できるようにする為の洗練された「作法」です。
それには確かに論理が矛盾を排除するメカニズムが働きますが、その人の能力範囲内でしか思考されないという意味で決して万能とはいえません。

論理的思考は原因と結果の因果関係を法則として扱い、対象の事象が持つさまざまな特性を分析してその中から特定のテーマに合う一部の特性のみを思考の素材にして素材同士を因果関係で組み上げていくことで思考を構築していきます。
この時、論理的矛盾が発生しないように緻密に論理を組み上げたとしてもそもそもが特定のテーマに縛られた思考ですので考え方や物事の捉え方が一面的になり思考の視野が狭くなります。

心で考えた場合、思考する対象を感じたままにオリジナルに近い状態でさまざまな特性を取り扱って組み合わさり具合を感覚で眺めるように捉えていきますので、その全体像や内部のメカニズムがどうなっているかを描き出してどう対処するかをテーマやジャンルに縛られずに大局的に思考しやすくなります。

文章にするとなんだか大袈裟な印象を与えてしまいそうですが、簡単に言ってしまえば物事を平面的に考えるのが論理的思考で立体的に考えるのが心の思考です。
たぶん「直感」のメカニズムに近い思考法ではなかろうかと推測しています。

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例え話で説明するとこんな感じになります。

不動産屋さんでよく見る住宅の間取り図を思い浮かべてみてください。
不動産屋さんで間取り図だけを見てあれこれ考えて住んでもいいと思える物件を選んだとします。
不動産屋さんの事務所にいる時は間取り図を見ながら用意した幾つかの選定条件を基準にして一生懸命考えて頭の思考を尽くします。

候補を選んだ後に実際の物件を確認するためにその物件が建っている現地に案内してもらい、実物の空間の中に入ると感覚的な思考が自然に働き始めます。
窓から差し込む光の具合だとか天井の高さだとか壁紙の色合いだとか立地周辺の雰囲気だとか・・・
間取り図を見ていた時には考えもしなかった図面には記載できないさまざまな情報を自分の感性を基準にして総合的に取りまとめて考慮し始めます。

論理的思考と心の思考の違いは、この平面の間取り図を見ている時の思考と立体の現物を見ている時の思考の違いに似ています。
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これは全くの推測でしかないのですけれど、僕が言う「心で考える」って別に特別な事でもなんでもなくて実はとっくの昔からやってる人はやってるのではないかと思います。

たとえば作曲する人とかは、たぶん一部であっても曲のフレーズやメロディーを唐突に思いついていると思います。現に音楽理論を全く知らない人でも作曲したりします。

世界でトップレベルの数学者が難問とされる数学的証明や新しい課題に取り組むとき、重要な仕事場になるのはペンを握り締めて机上の紙に向かう研究室ではなくてお気に入りの散歩道だそうです。

物理学者が論理を打ち立てるとき、先ずは観察から初めてその観察結果が何故そう振舞うのかを空想することが第一歩になるらしいです。

建築や製造業の分野でデザインをしている人もそうだと思います。多数の設計要件を一旦短い文章でコンセプトにまとめる時や、大雑把な形状や各種要素のレイアウトを考慮したうえでラフスケッチに描き出すのは論理的思考だけで出来るようなことではないと思います。もやもやした漠然としたイメージや閃いた思い付きを基にして論理的思考で整理しながら基本設計や方針を決めているんじゃないでしょうか。

学術論文や大学での研究レポートなどは論証の根拠となるデータや引用元を明確にすることが義務付けられていますが、関連データや引用元になりそうな学術書を山のように準備して積み上げてしまうと逆に論文なんて書けないんじゃないでしょうかね?

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つまり人が新しい何かを創り出すとき、最初の基盤を司っているのは論理じゃなくて感覚の方だと僕は考えています。そもそも人が何かを創造する時は意識しないまま感覚と論理のコンビネーションで創り上げてるんだと思います。

どうも僕は「論理的思考」だとか「テクノロジー」といったものに対しても、逆説的に「感覚」というものに対してもいろいろな偏見や思い込みが隠れているような気がしてならないです。
ここで僕が紹介しているのは、感覚と論理の比重バランスを論理側から感覚側へスライドさせた場合の話をしています。

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--- 長所と短所 ---

この思考法の最大のメリットは、一般社会の通念で出来上がった旧来の信念の影響をあまり受けずに大局的に物事を捉えたり考えたりできるところです。
つまり善悪二元論の制約から離れて自由な思考をしやすいです。
たぶん間違った見解を出してしまうこともあるでしょうけど、そもそも間違えない人間なんて今この時点で人間やってないので僕は間違ってもOKだと思ってます(笑)
なるべく精妙でバランスのいい結論を目指してやってますけど、反面のんきに感覚の世界を楽しんでたりもしてます。

デメリットとしては、論理だけを使って考えるような迅速さが苦手です。
即時の判断が必要な場合は、直感に従うなり脳みそさんの理屈を使うなりした方がいいです。
また、頭では問題視していても本心では気にしてないようなことは思考できません(笑)

それとその日の自分のコンディションによって調子が大きく左右されます。出来ない日はまったく出来ないです(・。・);
他にも静かで一人になれて長時間過ごしていられるタイミングと環境が必要になるのが難点と言えば難点です。
(僕自身も上手にこの思考法を使いこなせていないので、もっとこの思考法に慣れていくと徐々に改善していくとは思います・・・)

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もしこの思考法に興味があったら自分自身の心の機能をのんびりゆっくり拡張しながら試してみてください。
もしかしたらあなたにとっても有益な結論を導き出してくれる助けになるかも知れません。
もしそれが出来なかったとしてもあまり気にする必要もないと思います。
すべてはあなたのペースとあなたのタイミングでいいと思います。

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=== 気づいたことをちょっとだけ... ===
僕の感覚で自分自身や世の中の様子を見ていると、この数年でこっそり地味にいろいろな事が変わり始めてる気がしてます。

僕が感じる変化の一つがパターン的成功法の衰退です。
以前は「それはこうやれば上手く行く」と言われていたいくつもの定番の成功法がもう既に賞味期限切れを迎えて成果を期待できなくなっているような気がしてます。
この状況の中で人によっては新たな「上手く行く方法」や「こんな時は何をするのが正解か」が判らなくなって不安を感じている人もいるように見受けられます。

これは本当に無責任に個人的な予感だけで書いちゃいますけど、今後パターン的成功法は新旧問わず衰退し続けるんじゃないかと思います。
これまでの癖でついつい「皆が認める成功」を気に掛けてしまいますけど、だんだんとその意義も薄れていくような気がしてます。

だから形態を問わずに可能性の範囲を広げて「より上手に好みの生き方を楽しむ」みたいな感じが重要度を増していくんじゃないかと予想しています。
今後は「本心の望み」とか「自分の本当の好み」みたいなものが重視される世の中になっていくような気がしてます。

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突然そんな生活を成立させることは難しいと思いますが、余裕がある時に気持ちの中だけでも「自分の本心からの素直な望み」を見定めておいてはいかがでしょうか。
もちろん、もしよかったらね。

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※※※ 読者の皆様へ ※※※

今年はこれが最後の記事になります。
執筆をさぼりながらも1年間ブログを続けることが出来ました。
読者のみなさん ありがとうございました。
少し気が早いですけど、年末のご挨拶をここでさせて頂きます(笑)

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みなさんどうぞ、より素敵な新年を!

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今回も長文に最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう!

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