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ふわふわさらさら

こんにちわ! こうしてご覧いただけるご縁に感謝します。 気になること・なんとなく思いついた妄想などを気ままに描いていきます。 もし気になる部分がありましたら受け取ってください。 お気に召さないようでしたら「たわ言」と笑っていただければ幸いです!

自分への信頼 ~迷走した自信の行方~

こんにちわ!

夏が来てますね! 

前回ブログ記事を書いてから3ヶ月くらい経ってしまいましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか?

僕はこの3ヶ月間をまるで何年もの歳月が経ってしまったように感じるくらいのきつい気分の揺らぎの中で過ごしてました(笑)
あまりにも落ち着かないのでここ1ヶ月間くらいは住居を延々と、全身全霊の情熱を込めて人生最高の掃除をやってました(ちょっとオーバーな表現です。すいませんw)

持ってる家具や家電製品や持ち物で分解できるものは全部分解して、ありとあらゆる物を移動させながら出来る限り徹底して汚れや錆を落として綺麗にしてやりました!
改めて自分の持ち物を整理すると驚くほど要らない物がわんさか出てきました。
ふぅ~ すっきりした(・x・)

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大きな物を動かすたびに「こんな所にホコリが溜まってたのか!!!」とか「あれ? ここ見えてたはずなのにずっと汚れてたんだ・・・」とかいろいろと格闘しながら、床に展開されて溢れかえる荷物たちをあっちにやったりこっちにやったり移動させながらとりあえずの居住空間をまるでパズルのように確保しつつ、

「そうだ! こんな感じだ! 俺の内側が今まさにこんな感じだぁぁぁぁ~!!」

と訳の判らない想いと共に舞い上がるホコリと延々と戯れてました(・。・)b


結果的にはあまり変わり映えはしなかったけど、自分がスッキリしたのだからそれでいいです!
気に掛かっていた事に今出来る最善を尽くして区切りをつけたのだからそれでOKです!


その掃除の最中にふと、去年youtubeの中で見かけた『小学生の面白いテストの珍回答』のことを思い出してつい一人で笑ってました。
たぶん小学校低学年のテストだと思うんですけど、『お母さんの好きなところを書いてください』という出題に対して、用意されたその大きな解答欄に負けないくらいの大きで力強く書き込まれていたその子の回答は

『好きに理由なんてない!』

その一行だけでした(笑)


僕、この文章を見たときに「なんて核心を突いた言葉なんだ」と可笑しいやら感心するやらで大笑いするしかなかったです(笑)

この一行に込められたこの子のお母さんに対する絶大な「大好き!」という想いと信頼感が伝わってくる感じがあまりにもストレートで「素敵さ」がオーバーランして笑いのツボまで突き抜けて来ちゃったんだと思います( >_< )b

これって、大人が子供から教えてもらうポイントの一つのような気がしてます。
きっとこの子がどんなふうに成長していっても、お母さんに対するこの想いは変わることがないんだろうなと思います。


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=== 自信の着地点 ===
この世に生きてると時々「もっと自信を持って下さい」というようなことを言われたりするときがありますよね。
僕もかつてちょいちょいそう言われて何度も奮起したのを覚えてます。

ただ... ここだけの話ですけど、「自信を持って」と言われても内心では結構困っちゃったりしませんか?(笑)

かつての僕はそう言われるたびに懸命になって自分に自信が持てるような過去の経験を探したり、自信を持てるような凄いことをやろうと試みたりしてました。


--- 旧来の社会の習慣 ---
ビジネスの商習慣に端的に顕われてることなんですけど、取引額が大きな業種とかサービス開始と代金支払いのタイミングにタイムラグがあるようなスタイルの取引だと支払い相手の信用度を確かめた上での契約が普通だと思います。
これはいわゆる詐欺に引っ掛かって無駄な損金が発生しないようにするための防衛的な意味合いで、クレジットカードや総資産額や他社との取引実績やその他の何らかの根拠を基にして相手が信頼に足ることを確認してから実際の取引に着手するという手順が習慣になっていると思います。

これについて「良いor悪い」を問う気はないのですけど、これまでの人間社会がどういう感じに構築されてきたのかを把握をするために自分の視点を一歩後ろに下げて大きな視野であらためて観察してみるのも興味深いです。

相手が信頼できるかどうかを確かめない限り安心して取引するかどうかを決められない現状がそこに繰り広げられいて、不信や不安が社会の営みの根底にあるのがわかります。

同じことをもう一度書きますが、ここでこれについて「良いor悪い」を問う気はないです。
ついでに言うと、この場でいきなり「だから○○すべきなのだ!」みたいな主張する気もないです。
ただ単に新しい時代に向かって行く「自分の在り方」を模索するための純然たる現状把握のためです。


ここでちょっと読者の方にお伺いしたいと思います。

かつてあなたが誰かから「自信を持ってください」と言われた時、社会の習慣と同じノリで、自分自身が信じるに値するかどうかを確かめようとして何かしらの根拠を捜し求めませんでしたか?

もし仮に、誰かが僕に「お前はどうなんだ?」と尋ねてきたらその答えは先に記述したとおりかつての僕はそうしていました。
そして今はそうではありません。


--- 根拠なく自分を信頼する ---
この「根拠無く自分を信頼する」という行為は、ある人にとってはキチガイじみた馬鹿げた行為に思えるでしょう。
でもその反面、ある人はその価値に気づいてくれると思います。
これってとても強いです。
まだ知らない領域に足を踏み入れる強靭さを育てていってくれます。
それは他者に喧嘩を売るような威勢のよさとは全く別の部類の強さです。

この行為には他者から自分の価値を認めてもらう必要性がありません。
だからわざわざ他人に自分の価値を誇示して承認や認定やその他の何かを求める必要性もないです。
そこに留まり続ける必要性もなくなります。


自分への信頼が、覚悟を決めて自発的に次のステップに挑戦していく勇気や、新しい自分の在り方を自律的に調律しながらもっと自分らしい「素の自分」に回帰していくメンタルの強さを育てていってくれます。
これまでに誰も経験したことがない未知の領域に入っていく段階にある時に、過去の事例や実績に根拠を求めると無自覚なまま不安と不信が渦巻いちゃってそれが障壁になっちゃいますけど、そんな時には自分そのものを信頼しきっていく方がよりメリットが大きいです。

逆に過去に事例のない事柄に対して、共通性があるわけのない過去の判断基準や思考パターンをそのまま当てはめてしまうとその本質を誤認して的外れな対応をしかねないです。


決して甘さだけの話をするつもりはありません。
これは甘さも含めた総合的な在り方の様相を言葉で表現した場合の一つのサンプルです。

--- ちょっとだけ僕のハイヤーセルフ観を語らせて ---
僕は精神世界と呼ばれているものがどういったものかもハイヤーセルフと呼ばれているものがどういったものなのかもまだよく判っていないです。
ただ、以前にもブログに書いたように僕の基本的な考え方はこんな感じになってます。
・大きな感覚世界の中に小さな物理世界が在る
・大きな意識の自分の中に小さな肉体の自分が居る
・大きな感覚の領域の中に小さな理屈の領域がある

僕にとってはこの内包関係を基本構図とすることでいろいろな物事の整合性がスムーズに取れていくので、この前提のまま以降を書き続けます。

僕はこれまで新しい感覚で自分が感じた事や気づいたことや受け取れたもの、チャネラーさん達が伝えてくれる高次元のメッセージで自分が選び出したもの、この世に散らばったヒントとなる情報を取り入れながら新しい意識レベルでの自分の体系を創っては肉体側にそれが馴染んで定着するまで休息し、次のタイミングが来たら一旦分解して揺らぎの中で動的バランスを取りながらまた再構築するサイクルを繰り返してます。
そのサイクルの中にも意識⇒信念・感情・思考⇒表現(行動)ーー→気づいたことなどを自分へフィードバックするサイクルの繰り返しがあります。
立体的に表現するならスプリングコイルの螺旋に沿って周回運動しながら進行してるような感じです。
(脱線しちゃったり余分に休憩しちゃたり復習に戻ったりもよくしてますけどねw)


このブログに記した内容は、その体系の中からさしあたり長期的に変更する必要がなさそうなもので、他の人にも参考になりそうなものを選んでこうやって記述しています。

旧来の社会の基本的な考え方に「善行を積み重ねて徳を積み、やがては人として大成する」みたいなものがあります。
もっとカジュアルな表現だと「つらい仕事もこつこつと努力を積み重ねていれば、やがては成功する」という感じのものです。

ここで語弊や誤解を恐れずに敢えて言わせていただきます。
僕のハイヤーセルフはそんなもの気にしてないです(笑)
どちらかと言うとこんな感じ。

『それでもいいしそうでなくてもいいよ~ 自分で決めて。 お好きにどうぞ~ 』

「なにが本当の正解か」というより「自分で決めて自分がそれをやって経験して自分が成長していく事」の方が大事みたいです。
その意味でビジネス的な「結果を出す」とか「売り上げの数字を動かす」というものとは重要とされるポイントのウェイトバランスが異なっています。

世間でよく言われる「これはこうしなきゃいけないんだ」とか「これしかない!」みたいなものは、単に肉体側の肉体側による肉体側のための都合を満足させるための理屈でしかないみたいです。

基本的にハイヤーセルフは肉体側の自分が自分自身に向けている態度と同じものを返します。
愛すれば愛を返します。
信頼すれば信頼を返します。
ごまかしは無意味です。だってごまかそうとする相手が自分自身だもん。もろにバレてます(笑)

そして僕は大切な自分を裏切らない。だから裏切られることもないです。
やれることはできるだけやります。ダメな時はダメな時で開き直ります。
開き直っても大丈夫っていう妙な確信があります(笑)

時々イジワルっぽく思えるときもあるけど、それはそれで何か大事な意味があるんだろうと思ってます。
(子供の頃に母によく言われた『あんたほんとに返事だけやね(呆)』みたいな感じでしょうか???)

僕にとっての肉体側の自分とハイヤーセルフの関係はまるで親子関係のようです。
もしこの物質世界を「公園」に例えるなら、ハイヤーセルフは親役として子供役の肉体側の自分に向かって『遊んでおいで~』と送り出してベンチに腰掛けて見守っているような感じです。
実際に今の僕は 自分が自分をやっていることが楽しいです。

厳密に言えば肉体側の自分もハイヤーセルフと呼ばれる存在も「自分」という多次元的な総合体のそれぞれの側面なんでしょうけどね。


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=== 迷走した自信 ===
僕自身がかつて自信を持つために自分の過去に根拠を探し求めていた頃、「俺は以前あんなことをやったんだ!」とか「あの頃の自分は絶好調だった。あの時のようにやればいいんだ!」みたいな自分なりの実績を選んで自信の根拠となる理由を一生懸命自分に言い聞かせていました。

それはそれなりに効果もあったんですけど、競争社会の中ではその根拠自体が意味を成さなくなる時が必ずやって来るのがこの世の儚さですね(笑)
自分より優れた実績を持ってる人や根拠としたことに全く価値を感じてくれない人は必ず居ます。それってちょっと冷静に考えれば当然のことなんですけどね。

何かを根拠にして自信を手に入れるたびに必ずどこかで敗北感を味わうことを繰り返してました。
そのうちだんだんと大したことでもないことを意固地になって自分の凄さのように主張するようになっていきました。

その頃の僕はちょっと褒められたり少しでもいい評価をもらうことがもの凄く嬉しくて、評価してくれた人を自分のよき理解者のように感じていました。
いつの間にか無意識のうちに他者から認められることが自分の存在価値を証明する根拠のようにもなっていたと思います。
今でも他者から認められるのは嬉しいことだけれど、その当時の僕の必死さは今のものとは違う異質なものだったと思います。

あの当時の心理状態を裏返して考えると、否定されたり認めてもらえなかったりすることを慢性的に怖がってました。
だってそうされることは自分の存在価値を否定されることと同義になっちゃってますもん(・x・)

そんな状態だと自分と意見が違う人を見ると自分を守るために反射的に警戒態勢・防衛体制に入ってしまいます。
自分を守ることはとても大事なことなのですけど、それが必要以上に過敏になりすぎてしまうと精神的に不健康です。
(免疫細胞が過敏に反応して鼻水が止まらなくなる花粉症みたいな感じかな?w)

過去にごく少数ですけど他者をおとしめることに必死になっているように見える人と出会ってたことがあります。それってたぶんこんな心理状態がひどくなっちゃて無意識のままに自分を守るために自分より優れてると感じてしまった相手や自分が不利になると感じた意見の持ち主のアラを必死に探して、相手を排除することで安心したがっていたんじゃないかと今は推測してます。

その状態のその人には自分が何を求めて何をしたがってるのか自覚がないです。たぶん...


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=== 【雑学】旧来の在り方の性質 ===
特定の宗教をやっている人もやってない人も「俗世」という単語は知っていても それがどういうものであるかを気にしたことがある人はわりと少ないのではないでしょうか。
ちなみに僕は田舎の小さな寺の子供としてこの世に生を受けました。大学も仏教の専門課程を卒業しました。
子供の頃から何がどうなってるのかよく判らないこの世の真理を知りたいと願ったし、「人類に宗教って必要なんだろうか?」とか「僕は本当に存在していると言えるのだろうか?」とか闇雲な疑問をずっと抱いたままいい歳をした大人になりました。

このブログの中で時々宗教批判にも見えるような記述をしていますが、もしそれによって気分を害された方がいらっしゃたとしたらごめんなさい。
決して安易な気持ちで書いたわけではありません。宗教を批判したり否定するために書いたのではないことをどうかご理解ください。
宗教に向き合うと湧き起こる更なる多くの疑問や、葬儀や法事といった風習としての宗教行事は受け入れられていても「教え」としては宗教界と一般社会の間に立ち塞がる越えられるとは思えない分厚い壁を感じてジレンマに悩んだ一人として書かせて頂きました。

そしてここで「俗世」という単語を使う無礼を許してください。どうしてもこの言葉を使わないときちんと書けない個人的な意見があります。


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--- 「俗世」と呼ばれたものを「意識レベル」という単語を切り口にして断面図を描いてみる ---
「意識レベル」という言葉を初めて知ったとき、この単語自体が僕にとってはヒントになりました。
「意識が高い」とか「意識が低い」とか言うと簡単に善悪二元論の「優劣判断」とか「善悪判断」に引っ掛かってしまいそうで危険なんですけど、「世の中には変な事考えてる人もいるんだな~」くらいの気軽さで読んでもらえるとありがたいです(笑)

<善悪判断=排他関係の構築>
ちょっと架空の人物、AさんとBさんに登場してもらいます。

● AさんとBさんがある事柄に対してそれぞれに相反する異なった意見を主張した場合の組み合わせパターンを考えてみます。

  ① Aさんが正解の時、Bさんは間違い
  ② Aさんが間違いの時、Bさんは正解

大事な案件ほどこの2通りの組み合わせとして取り扱われることが多いと思います。ひどい時には意見の対立が原因になって口論になったり喧嘩に発展してしまう場合もありますよね。
またある時には「歩み寄り」という解決策に従って双方が納得しきれないまま両者の意見を部分取りした折衷案に落ち着く場合もありますし、どちらか一方が相手の意見に納得して最終的に二人の意見がまとまる時もあります。


●今度はAさんとBさんが二種類の記号の ○とXのどちらかを無作為に選び出した場合の組み合わせパターンを考えてみます。

 ① Aさん:○ --- Bさん:○
 ② Aさん:○ --- Bさん:X
 ③ Aさん:X --- Bさん:○
 ④ Aさん:X --- Bさん:X
  ※全部で4通りの組み合わせがあります


ここでAさんとBさんに意見の違いが発生した場合のパターンと、AさんとBさんがそれぞれに記号の○とXを選んだ場合とを比較してみてください。
AさんとBさんの意見が相反するものだったとしても、両者が「正解」の可能性はないんでしょうか? 両者が「間違い」の可能性はないんでしょうか? そもそも一致させなければならないようなことだったんでしょうか?


意見の対立から口論や喧嘩に発展してしまうような場合、その時のAさんとBさんの心理状態はどんな様相になってるんでしょう?
なぜ争ってまで意見を一致させなければ気がすまないんでしょう?


この様相は「意見の対立」という局面だとなんだか深刻に感じてしまいますけど、その光景をロックバンドの楽器編成に置き換えると結構コミカルになります。

例えば「ロックはビートだろ!!!」の結果として全員でドラムを叩いてるバンド
 ⇒ それはそれで興味があるけど延々とそれをやられるのはつらい

例えば「バンドサウンドを支えてるのはベースなんだ!!!」の結果として全員でベースを弾いてるバンド
 ⇒ たぶん演奏として成り立たなくはないだろうけど耳が痛そう

例えば「花形はなんといってもギターだろ!!!」の結果として全員でエレキギターの演奏大会をやってるバンド
 ⇒ 楽しそうだけど何かが違う・・・

例えば「魂の叫びを聴衆に聞かせるんだ!!!」の結果として全員でボーカルをやってるバンド
 ⇒ それってもはやアカペラグループ(・。・);


.
--- 「真実は一つしかない」って本当? ---
一般的に「真実は一つしかない」と考える人は多いと思います。
逆に「真実は一つじゃない」と言われると「そんな馬鹿な・・・」という気分になる人も多いと思います。


●過去に根拠を求めた自信が織り成す心理模様
この件を取り上げるとき、先ずは「真実は一つしかない or 真実は一つじゃない」の排他的な二者択一の問題として捉えるのではなく、「なぜ自分は意見を統一したがっているのか?」という着眼点で自分を観察してみます。


この着眼点での僕の意見を「根拠に基づいた自信」を例にとりながら記述します。

旧来の社会は「競争原理」のメリットを大きく持ち上げてきました。僕は学生時代に「ライバル意識を持つことで互いに切磋琢磨して互いに自分を向上させる」みたいな意味合いの説明を学校の先生からちょくちょく聞かされました。その当時はその説明に納得していましたが、今となってはその裏側で発生してしまうデメリットの方が実は大きいのではなかろうかと考えてます。

その理由は先に記述した自分への不健康な心理的圧迫感です。自分の意見に対する他者の反応や評価って、意識的であれ無意識的であれ自分が周囲に発信している自分の在り方の自分自身へのフィードバックですし、それ自体にメッセージが含まれていることもあるので軽視する気はないです。
ただし、過剰に敏感になって反応してしまうとなにかと面倒な事態に発展しちゃいます。
(花粉症を引き起こすあの過敏な免疫細胞みたいな感じ?w)

ただ、競争原理が機能する弱肉強食の生存競争を妄信的に真剣になってやってしまうと、程度の差こそあれ「他者の評価が自分の存在価値」という心理状態になってしまうと思います。
これが善悪二元論と結びついちゃうと、ひどい時には自分の中で「この意見を持っている俺は善! 正反対の意見を言うあいつは悪だ!」ということにしたくなっちゃいます。
というかそう見えてしまう・・・

●意識レベルが変わると理解力が変わる
例として釈迦の有名な言葉を挙げます。

  天上天下唯我独尊 (※注1)
  (現代語直訳:天上界においても地上界においてもただ自分だけが尊い


 この文章を読んであなたはどんな印象を受けますか?

旧来の一般的な感覚でこの文章を字面どおりに読むと、「なんて傲慢な奴なんだ!」とか「自己中心主義ですね~」とか、好意的に読んだとしても「それほどまでに尊いお方なんですね。ありがたや...」みたいなものになると思います。

僕はこの文章を初めて知ったときに「釈迦がそんなひどい事を言うわけがない。何かの間違いだ!」と思いましたよ(笑)

過去に記事にした内容の「分離意識」をちょっと気に掛けて、この文章を読んだ時の感情や思考の流れを観察してみてください。
「分離意識」と優劣判定を善悪でレッテル張りしていく「善悪二元論」との合わせ技でこの文章を読むと、瞬時に「お偉い釈尊 vs 下世話な民衆」の構図の中で、「みんな平等なのにこいつどれだけのぼせあがってやがるんだ?」とか「自分一人だけが尊いなんて言う人はちょっと危ないタイプやね。警戒しなきゃ」とか「尊い方なのだから身の程をわきまえて敬って接しなければならない」みたいな感情や思考が流れると思います。


たぶん釈尊自身は現代でいうワンネスの意識で教えを語ったんだと思いますので、その感覚を見知らぬ通行人との会話に置き換えて想像してみるとこんな感じになると思います。

 釈尊  :「天上界においても地上界においてもただ自分だけが尊い。」
  通行人:「もちろんさ。俺もな。」
 釈尊  :「もちろんそうさ。」

 (空想遊びしてすいません ^^;)


※注1:この文章の解釈は経典によっても諸説があり、そもそも釈尊が生前当時に語ったパーリ語(口語)が最低でも100年間ほど口伝で後世に伝えられた後にサンスクリット語(文語)に文章形態に翻訳され、さらにそれらが中国で経典として漢語に翻訳され、ついでに中国で釈尊の言葉ということにした新規に刊行された経典まで混じって日本に仏教として伝わっているため、本当は釈尊本人が何をどう語ったのかは記録が残ってないです。
でもきっと釈尊が語った本質的な要素は含まれているだろうと思います。
(文章明瞭化のため「文章形態に」、「それらが」、「経典として」を加筆 Jul. 31. 2018)


スピリチュアル( New Age )の中にもこんな言葉があったと思います。

  あなたは存在するだけで価値がある

これはわりと頻繁に目にするキーワードだと思います。
でもこれを重要視する人はまだあまり居ないような気がしてます。

というか、このキーワードの価値を理解できてる人はもう自分への過小評価や罪悪感や無自覚な依存心を乗り越えてる、若しくは少なくともそれが何なのかを自覚できるくらいにまで意識レベルが上がってると思います。


こんなことを言うと中には気分を害される方がいらっしゃるかもしれませんが、その時々の意識レベルによってその人のその時点での視点や捉え方や感覚が変わり、結果的に他の人と同じものを見ていてもそこから読み取る情報の質や量や重要度の度合などの意味合いが変わります。

だから「自分にとっての真実」を別の言い方に置き換えるとこんな風に表現できると思います。

その人にとってのその時の真実は一つ。ただし他の人にとっての真実と同じとは限らない。
そしていつかはそれも変化していく。

こんな感じに表現できると思います。


そこに万人共通の「正解 or 間違い」はないです。その人にとっての大事な意見ほどその人にとって次のステップへの手掛かり・足掛かりになっていくと思います。例え本人がその後にそれを間違いだったと判定しても、そこで新しい何かを自分で発見しています。
だから結果的にそれがその人の大切な成長のステップになります。

そこで正誤や真偽や優劣を判定して固定化させてしまうより、どんな真実もいつかはその真偽や重要度や意味付けが個人の成長に合わせて変わっていく暫定的なものであると承知して、自分の成長が停滞しないように流動性を持たせておく方が大事だと思います。

その人が真実とした意味合いをいつまでそのように保持するか、いつどのように更新するか、どんな風に他の事柄と関連付けていくかは個人の尊厳に関わることです。

判定することに躍起になって自分や他者をその判定の中に閉じ込めて停滞させてしまうより、一人一人が停滞することなく自分で次のステップに進んでいくことの方が大事です。
休息とか寄り道とか迷走とかを全部含めて自由にいろんなことを肉体的にも精神的にも経験したり体験したりする方が有意義のように思います。
もちろん、僕自身も含めて。

これは人間の在り方を不自然な均質化から自然な進化へと戻していくことにもなります。


今まで「正しきもの・悪しきもの」として固定してきたものを解きほぐして流動性を取り戻して再検証し、自分自身と共に全体を再構築していくこと。

その時に、それらの固定化されて硬直してしまっていたものに活力を与えて生き生きとしたみずみずしい流動性を復活させていってくれるエネルギーが全てを認める「無条件の愛」だと思ってます。
たぶんこれがアセンションと呼ばれているものの核心です。

これを言葉を変えて表現するなら、
「愛と自由への回帰」です。



その再検証と再構築の繰り返しは個人差はあっても一人一人の中から始まり、いろいろなタイプの人達のそれぞれの個人の新しい在り方を通してフラクタルに社会の在り方を再検証・再構築の段階へと導いていくことになります。
その再検証と再構築が誰の目にも明らかなくらいに社会現象に反映され始める段階が「光のイベント」と呼ばれているものなんだと僕は認識しています。
そして再検証の側はもう現れていると言っていいと思います。


.
ここでさっきのロックバンドのメンバーに、それぞれの意見を反映した好みの楽器編成で登場してもらいますね。
 ・ビートをバッチリきめるドラム
 ・ドラムのビートとギターの音階をがっつりつなぐベース
 ・きらびやかなサウンドを前面に押し出すギター
 ・楽器の音に埋もれることなく聴く人達を震わせながら響き渡るボーカルボイス
そんなイメージの方がまとまりがあってしっくりこないですか?(・。・)


--- 旧来の社会の奇妙さ ---
映画『マトリクス』(原題:The Matrix)の三部作を観たことがある人はちょっと思い出してみてください。
第三作目(REVOLUTIONS)の終盤に出てくる街中の人々がスミスだらけになっていた不気味光景。
ラストシーンで一旦スミスに同化されたネオが内側から光を発してスミスの殻を割っていくシーン。

あれは何を象徴してるんでしょうかね?

ただの映画の話なんですけど、相手の尊厳を無視して暴力的に相手を均質化していく「スミス」というキャラクターが何を表現していたのか真相は判りませんけど、僕はたぶん「エゴ」の象徴だったと思うんです。
「エゴ」ってあまりいい意味で使われない言葉ですけど、これも自分の信念体系の一部と言っていいと思います。つまり大切な自分自身の一部です。

だからそもそもは決して悪者ではありません。ただ不適切な誤動作をしちゃってる、不適切に過大な権限を与えられちゃってる感じだと思います。

信念体系の一部なのだから、旧来の信念体系を更新して潤いを復活させてあげるとエゴさんの振る舞いも変わり始めます。


子供の頃からの僕の経験を振り返ると、ずっと家庭や地域や学校や会社や社会などの自分の周囲の理屈やしきたりに「自分の在り方」を適合させていくようにしてきたと思います。
そして僕はそれに深く慣れ親しんでいました。今も取り組んでいる最中なんですけど、それは無意識下にある信念と関連して当初自覚していたよりもはるかに深いです。
正直な感想として僕は自分の自由意志を使って自分の生き方や在り方を決めた経験は案外少なかったんだと思います。

それは先に挙げた「根拠に基づく自信」にも絡んで、「他者に認めてもらえなかったら自分の存在価値を失う」という恐怖心の制約を受けて他者に認めてもらえそうなことを狭い選択肢の中から選択してきたと思います。

これは「自由の中に恐怖心で出来た小さな世界を作ってその中で生きることを自分で決めていた」と大きく解釈すればそれもまた自由意志の行使ではあるのだけれど、それはやっぱり圧迫感が強くて面倒くさくて面白くなかったです。
そしてエゴさんが恐怖に従うようなインプットをしてしまった最終的な人物はかつての僕自身です。
それが出来るのは自分しかいません。


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もしここで「世の中の決まりごとに従わなかったらおかしくなるんじゃないの? あなた大丈夫ですか?」とご心配下さった方がいらっしゃいましたら、大丈夫です!(笑)
以前にブログに『「常識」の外側へ!』という記事を書いたように今の僕は常識なんて相手にしてないです。だからといって意味もなくわざわざ非常識に振舞うような真似もしません。

なるべく他の人に迷惑を掛けたくない。
なるべくお互いが自然に笑い合えるようにありたい。
なるべく心地よく過ごしたい。
なるべく情熱を感じることをやりたい。
もっとそう在れる様にしたい。

案外こんな程度のことだけで特に問題は起こらないです(・。・)
もしかしたら過度に常識を気にしていた頃よりも常識的な人に見られてるかも知れません(笑)


ごくごく大雑把に言ってしまいますけど、エゴさんに誤動作を引き起こさせている主な原因って自分の価値を他者に委ねちゃってることだと思うんです。
それは他者を自分と同じに揃えたくなる心理状態を含めて、自分が決める自分の生き方を他者の意見に合わせたくなる心理状態を含めて。

僕には『マトリクス』で出てきた「スミス」というキャラクターは、自分の存在価値の根拠を否定される前に他者を暴力的に同化することで安心を得ようとするエゴの究極的な様相だったように思えます。
もしかしたら「戦争」という行為の根底にもそういう人間心理が働いてきたのかもしれません。


旧来の社会の奇妙さって、恐怖心に過剰に反応するエゴさんを主体にした在り方をずっと継続してきたことに起因してるように思います。
確かに科学やテクノロジーや経済の発達、民意を反映させる政治・社会システムの発達が人々の人間性や生活レベルや文化の向上に寄与してきたのも事実だと思いますが、それとは別の次元で人類の発達段階が今はもっと個人単位の深いレベルで変容していくタイミングに来ているような気がしてます。
(これは旧来の「聖人」のイメージになるという意味ではないです。本来の自分自身を生きる。素の自分で生きる。自分の在り方や生き方をエゴの自動操縦に任せず自分の意志で自由に決めていくという意味です。)


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●善悪二元論の分離作用
僕が思う「善悪二元論」の特徴を少し書きます。

善と悪があれば人は善を選択し悪を排他します。そして何を善とし何を悪とするかはそう判断したその人の感覚によります。
以前のブログ記事『自分を愛してください』の経験談で書いたように、自分自身に向けた善悪のレッテル張りは二者択一の排他関係を積み重ねながら自分自身を細かく分断した状態にしていきます。
極端な表現をするとそれはまるで「右手は器用だから善、左手は不器用だから悪。だから右手だけを使い左手は封印してしまえ。」みたいな馬鹿げた行為でした。

人の身体って歩くだけでもそれぞれの部位が全体的に絶妙な動的バランスをとりながら有機的に連動して動く総合体です。
もし仮に左手をギプスで固定したらそれだけでスムーズに歩けなくなります。

これは自分の内側の精神世界も一緒です。自分の内部の一部を分断状態にするとその分だけ精神活動のバランスが崩れます。表面的には判らなくても表層意識としては気づかなくても確実に部分的なロックが掛かるのでスムーズな精神活動を阻害します。

レッテル張りって自分が善悪判定した特定の事柄をパターン化して「善としたものは善」、「悪としたものは悪」のファイルに突っ込んでそのまま信念にしてちゃいます。
他者を見ながら「善としたものの証拠探し」、「悪としたものの証拠探し」をする事はあっても過去に善悪判定したものを自発的に掘り返して再検証することはあまりないんじゃないでしょうか?

仕事場や住居の整理で一度ファイリングした資料や箱に突っ込んだ持ち物って、ほぼ入れ替えすることなくそのまま長期間ほったらかしちゃうあの感じです(笑)
そうです! そうなんです! だから今回の僕の全身全霊の掃除で捨てるものがビックリするほど出てきたんです (・x・)b


●俗世
旧来の社会をごくごく単純化してしまえば「悪者を探し出して排除することで恐れによって慢性的に維持されている不安感を解消して安心感を得る」を繰り返していたと思います。

それは今までは必要な事だったのかも知れないです。実際にそれによってもたらされたメリットもたくさんあると思います。

ただこれは、逆説的な表現をすれば「悪者に依存しないと成り立たない意識レベルにあった」とも言えます。

そしてその意識レベルにあまりに長期間に渡って留まり続けてしまって、これ以上このまま突き進むわけには行かないところまで来てしまったんだと思います。

大学生の頃にどうしても判らなかった疑問の一つの「俗世って何???」の答えとして今の僕はそれをその結論としています。


さらに言えば「それは宗教みたいだからダメだ」のレッテル張りに安心感を覚えて思考停止する意識が「宗教」というカテゴリーとフォーマットを作り出して維持している俗世の意識レベルです。
「宗教者としての振る舞いとは・・・・」と宗教に無茶な聖人像をレッテル張りして安心して留まり続けようとするのが俗世の意識レベルなんだと思います。


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=== 光と闇 ===
このブログを読んでくれている方々は「光と闇」という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。

この「光と闇」をこれまでの慣れ親しんできた習慣どおりに「正義と悪」の軸で捉えてしまうと何がなんだか意味が判らなくなっていくと思います。

僕はこれを光からの「支援の用意はあります。 意識レベルを上げながら進化しますか? このままのレベルでいますか?」の単純な呼び掛けだと思っています。

ちがう言い方をすると「愛が好きですか? 恐怖が好きですか? あなたは自由に選べます。」の呼び掛けと言っていいと思います。


一方、闇に分類された人達のことを調べていくと嘔吐しそうになるほど酷い話がたくさん出てきます。
(だから他の人にこの件を調べ過ぎて欲しくないです)
でもそこに惑わされて「こいつらを排除すれば状況が良くなる」ということだけに思考を奪われてしまうとその本質を見失ってしまう危険があります。

この光からの呼び掛けは、今の時点で「闇」と見なされている人達にも差し向けられていることに気づいてください。
共に存在するものとしてまったくもって平等に対等に...

自分が自分の進化を選ぶために必要とされる条件なんて何もないです。
自分の進む方向性を決める者は自分以外にどこにもいないです。


これは単に一人一人の個人に対する呼び掛けです。
この意味でどこからともなく現れる「正義の味方」はどこにもいません。
ただ、その人が新しい一歩を踏み出していくたびにそれに不慣れな人を手助けしてくれる誰かがそのつど必ずいると思います。


闇と言われているものの本質はその悪行と言うよりむしろ人々をこれまでどおりの分離意識の枠の中に閉じ込めて旧来の意識レベルに留まらせようと画策する点にあるように思います。
どうぞ彼らが繰り出す幻影の術に惑わされないで。

僕自身の経験談として、エゴさんから自分の主導権をチェンジしてもらう時にもいろいろな幻影の術を駆使してきます。
あなたが進化することを選ぶなら、どうぞ惑わされず愛を選んでください。

そしてどうか、エゴさんはこれまであなたのために頑張ってきて、これまでそのメリットを受けてきたことを忘れないで下さい。

許す自分は許される自分。
手放す自分は新しい在り方を選ぶと覚悟を決めてそれを解放してあげる自分です。



=== その人にとっての最善は千差万別 ===
僕はいつもこのブログの中で「自分を愛する」と「素の自分」を軸にして「意識」を主要な着目点としながら記事を書いてきました。現時点では僕個人のこの方針は多分ずっと変わらない気がしてます。
ただし、記事中にもところどころに入れているようにこれは「自分の真実」としての個人的な意見と経験談です。

僕はそもそも理屈っぽくて頭が固いタイプの人間でした。こんな僕が踏み出した最初の一歩は「論理が絶対」という信仰にも似た信念を捨てて「感覚が全ての源」という領域へ飛び込むことでした。
この時、僕は本当に怖かったです。その向こう側に行ったとき、そこに飛び込んだ自分が本当に生きているかどうかすらはっきり判らなかったです。
実際に心理的にそこへ飛び込んだとき、5分間ほど呼吸が乱れ過ぎて死ぬかと思いました(・。・);

だから僕と同じタイプの人向けに理屈を使ってそのハードルをできるだけ下げてしまいたかったのがこのブログを始めた動機の一つです。
そのためにここに書いている内容は論理と感覚の狭間あたりの内容にとどめています。
実際には人類の進化とはその両側に向かって芸術的な内容や宗教っぽい内容も含めて、科学技術に関するものや哲学・形而上学的な内容も含めて何の矛盾なくもっともっと無限に広がっていくと思っています。

僕の理屈っぽい性格は今でも変わってないです。ただ以前のように論理を妄信した理屈の下僕ではなくなりました。
逆に、論理ってポエムや小説や絵画やイラストや音楽やダンスや運動などとまったく並列な表現手法の一つでしかないと納得した時から、僕の文章表現力は向上したと思います。


だから僕の少し理屈っぽいこのスタイルの文章は、単なる僕の個人的な趣味でしかないです。
感じたものを少し理屈っぽく文字で表現した「感想文」でしかないです。

どうか理屈や論理に不適切な価値を置かないでね。ましてやこの件に関してポエム調に書かれていたり情緒的に書かれた文章を盲目的に否定したりしないでね。

僕は「意識」を主な着目点にしているけれど、感情や行動、その他の一連を否定していないことに気づいてね。

僕は自分自身を掘り下げるルートを進んでいるけれど、最善のルートは人によって千差万別で、その幾千幾万もの個性的なルートが次の時代の社会を織り成していくものだと確信しています。

僕はなるべく平和的な手法を模索して行っているけれど、それとは違って実行的に旧来の社会の問題点を無力化していくルートを辿っている人達もいるんだろうとも思ってます。
(もちろん「俺様つよいんだぞ」みたいな不適切な自己陶酔の暴力行為とは違うレベルでね)


今いろいろなタイプの人がそれぞれに自分の特性や個性を生かして歩き始めてると思います。どうぞ自分自身を生かしてこれまで以上に生き生きとみずみずしく輝いていって下さい。

そして「これは絶対こうなんだ!」とか「本当は○○なのにあなたはXXXX・・・」みたいな他者やエゴさんの声に惑わされず、自分を信頼しきってあなたしか知らない、あなたにしか体験できない本来の自分へ向けて進み続けていってください。
もちろん僕のこのブログも含めて。 僕自身も含めて。


人類が持っている進化の伸びしろは果てしないです。
たぶん間違いなく...


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最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう!

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